柄谷行人「宗教と宗教批判」

雑誌「批評空間」での対談。『世界共和国へ』において、

世界共和国へ―資本=ネーション=国家を超えて (岩波新書)

世界共和国へ―資本=ネーション=国家を超えて (岩波新書)

柄谷さんは、社会システムを、以下のように分類しました。
X軸を、平等(マイナスは、不平等)、Y軸を、統制(マイナスは、自由)。
第一象限を、国家社会主義。第二象限を、福祉国家資本主義、第三象限を、自由主義第四象限を、アソシエーショニズム。
また、これに対応させて、「交換」を、以下のように分類します。
第一象限を、互酬(贈与と返礼)。第二象限を、再分配(略取と再分配)、第三象限を、商品交換(貨幣と商品)、第四象限を、X。
大変に、いろいろなことを考えさせる分類であるが、大事なのは、ここで言っている「交換」ということが、むしろ、人間そのものが、日々行っている、行動や心理そのものの分類になっている、ということなのだ。
そこで、あらためて、互酬(贈与と返礼)ということが言われているが、普通、こういう言葉は、文化人類学で言われる、システムについてであるが、この仕組みは、逆に言えば、あらゆる共同体において、存在する。たんなる、事実として、モノをあげたり、もらったり、ではないのだ。江戸時代の御恩と奉行の主従関係も、企業の上司と部下の関係にしても、かなりのウエイトで、こういった心性がある。しかし、こういった心性だけが、野放図に存在することは、人間関係において、十分であるだろうか、となる。

それで合田さんの話につなげると、慈愛は贈与であり、正義は交換であるというレヴィナスの言葉をいわれたけど、贈与というものは債務感を与えるでしょう。お返しをしなきゃいけないという気にさせる。交換にはそれがない。ぼくは、贈与の関係が根底にあると思うけど、どこかでそれを交換の関係に変えられるようにしておかないといけないと思います。それがいちばんわかていたのはフロイトで、精神分析というのは高い金を取るわけです。そうでなければ患者が分析医に転移したままで終わってしまう。あくまでもこれは交換の関係なのだということを毎回金を取ることで教えなきゃいけない。
そうです。精神分析はそこでちがう。しかし、分析者同士の教育分析では金をとらないから(笑)、エゾテリックな関係ができあがる。ソクラテスも他のソフィストと違って金を取らなかったから、転移してしまう若者が多かった。もちろんソクラテスは最後には突き放すのですが、そのことが人々にかえってアンビヴァレントな怒りをもたらした。そして彼は死刑になる。ところが、プラトンはそのようなソクラテスを聖人に祭り上げた。これは田川さんの書かれたイエスパウロの関係に似ていると思う。
しかし、このような「転移」を突き放すことができるだろうか。中沢新一が言うチベット密教にしても、ほんとうは最後に師と弟子の転移関係を突き放す契機がなければならないと言っているんですよ。しかし、実際に突き放したグルはまずいない。しかも、本人がいくら教祖であることを否定してもダメなんですよ。おそらく、これは狭義の宗教にかぎらず、重要な問題ではないかと思います。

もう二つの、再分配や、商品交換は、その問題も含めて、フォーカスしやすい。
だから、まず、比較的に、無意識に行われていて、言語化されていない、互酬(贈与と返礼)、ここを、歴史の中において、明晰にすることから、いろいろなことが見えてくる、そんな感じですか。
まあ、言ってしまえば、よく分からない、第四象限の、アソシエーションや、「X」は、そういったいろいろな矛盾から、排他的に想定できる、ユートピアみたいなものですね。ちょっと別の機会があったら。