杉山茂樹『4-2-3-1』

あまりこういう本を読んだことなったが、おもしろかった。サッカーの本であるが、どの選手がどんなスーパープレーをしたかが書いてある本ではない。監督が選択する、フォーメーションの話しか書いていない。サッカーにおいては、選手をどのようなポジションに置くかが、大きな戦術となる、というのだ。
前に、中田英寿の本で、子供の頃に、自分の足のボールをあてる場所、角度によって、いろいろなボールが送られることに、感動している記述があったが、彼にとってのサッカーとは、そういった身体パフォーマンス、英雄時代の武勇伝のような性格のものなのであろう。
しかし、サッカーには、もう一つの側面がある。例えば、ある攻撃選手が、敵陣に攻めこもうとしたとき、だれのプレッシャーも受けていない状況と、マークされている状況では、まったく違う様相を示す。目の前にだれもいない状態で、ゴールすることと、邪魔されながら、それを振り切ってゴールするでは、相当違う動きになる。
そうなると、どのような戦術をとり、選手を配置し、攻め込み、守るか、というのは、大きなパフォーマンスの違いを生み出す。
つまり、監督の戦術と、選手一人一人の実際の実力のアピールと、その二つがせめぎあっている場だということなのでしょう。
こうやって見てくると、長いサッカーの歴史の中で、さまざまにフォーメーションが変わってきたということは、その監督の戦術の占める位置は、実際にはかなりの範囲をしめていることを意味しているのでしょう。
しかし、そうなると、やっている選手はおもしろくないでしょう。自分の得意な所から、自分の得意な動きを見せて、さんざん自分をアピールして、しかも、勝ちたい。玉砕したっていいわけです。英雄のように、自分が主人公になって、自分のかっこいいところをみせられれば。自分の価値をみせることにはなるわけですから。
しかし、その、気持ちよくやっているのを、邪魔するやつがいる。監督だ。なんか適当な、へ理屈を言って、自分のような英雄をベンチに下げやがる。なんだか、いろいろ、動きを制限してくる。
中田英寿の「自分探しの旅(ぷぅ)」は、そういうサッカーに嫌気がさして、そういうサッカーが嫌いになった表現なんでしょうね。
日本は、武士道の国で、玉砕の国ですから、監督は、元選手の英雄ばかりですし、ブラジルの自由で楽しいスタイルの人たちばかりですし、ちょっと、玉砕型の、ノー戦術は、続くんじゃないでしょうかね。サッカーに目の肥えた人ほど、日本の試合がおもしろくなく、応援する気にならない、そんな感じですか。

4‐2‐3‐1―サッカーを戦術から理解する (光文社新書)

4‐2‐3‐1―サッカーを戦術から理解する (光文社新書)