坂口安吾「日本文化私観」

有名な、坂口安吾のエッセイ。このエッセイの中で、安吾は、美をまったく違ったものとして定義するわけです。

そうして、小菅刑務所とドライアイスの工場と軍艦と、この3つのものを一にして、その美しさの正体を思いだしていたのであった。
この3つのものが、なぜ、かくも美しいのか。ここには、美しくするために加工した美しさが、一切ない。美というものの立場から付け加えた一本の柱も鋼鉄もなく、美しくないという理由によって取り去った一本の柱も鋼鉄もない。ただ必要なもののみが、必要な場所に置かれた。そうして、不要なる物はすべて除かれ、必要のみが要求する独自の形が出来上っているのである。それは、それ自身に似る他には、他の何物にも似ていない形である。必要によって柱は遠慮なく歪められ、鋼鉄はデゴボコに張りめぐらされ、レールは突然頭上から突出してくる。すべては、ただ、必要ということだ。そのほかのどのような旧来の観念も、この必要のやむべからざる生成をはばむ力とは成り得なかった。

僕の仕事である文学が、全く、それと同じことだ。美しく見せるための一行があってもならぬ。美は、特に美を意識して成された所からは生れてこない。どうしても書かねばならぬこと、書く必要のあること、ただ、そのやむべからざる必要にのみ応じて、書きつくされなければならぬ。ただ「必要」であり、一にも二にも百も、終始一貫ただ「必要」のみ、そうして、この「やむべからざる実質」がもとめた所の独自の形態が、美を生むのだ。実質からの要求を外れ、美的とか詩的という立場に立って一本の柱を立てても、それは、もう、たわいもない細工物になってしまう。

美は、美を意識してなされたところにはない。法隆寺をこわして駐車場にしたっていい、というくらいのラディカルさ、なのだ。

見たところのスマートだけでは、真に美なる物とはなり得ない。すべては、実質の問題だ。美しさのための美しさは素直でなく、結局、本当の物ではないのである。要するに、空虚なのだ。そうして、空虚なものは、その真実のものによって人を打つことは決してなく、詮ずるところ、有っても無くても構わない代物である。法隆寺平等院も焼けてしまって一向に困らぬ。必要ならば、法隆寺をとりこわして停車場をつくるがいい。我が民族の光輝ある文化や伝統は、そのことによって決して亡びはしないのである。武蔵野の静かな落日はなくなったが累々たるバラックの屋根に夕陽落ち、埃のために晴れた日も曇り、月夜の景観に代ってネオン・サインが光っている。ここに我々の実際の生活が魂を下している限り、これが美しくなくて、何であろうか。見給え、空には飛行機がとび、海には鋼鉄が走り、高架線を電車が轟々と駈けて行く。我々の生活が健康である限り、西洋風の安直なバラックを模倣して得々としても、我々の文化は健康だ。我々の伝統の健康だ。必要ならば公園をひっくり返して菜園にせよ。それが真に必要ならば、必ずそこにも真の美が生れる。そこに真実の生活があるからだ。そうして、真に生活する限り、猿真似を羞ることはないのである。それが真実の生活である限り、猿真似にも独創と同一の優越があるのである。

坂口安吾全集〈14〉 (ちくま文庫)

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