柄谷行人「<差別>と文学」

差別をめぐっての対談。ポール・ド・マンの名前があるが、自分というのは、自分のカテゴリーに制約されてしか、物事を、みれない。どうしても、気づかない穴ができてしまう。

たとえば、革命運動そのものが実は女性差別的であるとか、逆に、ある種のフェミニストは、その戦争が何たるかを問わないで、戦争に男と対等に参加させろと言う。しかし、ぼくは完全に非の打ちどころのない立場はないと思う。どこにも盲点ができる。ド・マンの「盲目と明察」じゃないけど、むしろ盲点があるということが批判を可能にするわけです。自分はどこにも所属しない、どんな関係にも属さないなどというのは、ありえない。むしろ、ある所属性・が見えなくなっているものを照らし出すポジションを与えるのだと思う。そうやって諸関係の中にあってズレをつくっていく形でしかやれないでしょう。