仲正昌樹『デリダの遺言』

私はどうしてもこの、竹田青嗣の書いているものが、おもしろくないのだが(初期の頃の、韓国文学について書いているのはまだいいのだが)、その辺りのことについて、書いてある本があった。

「共通項がある」という「竹田さん」の言い切りには、どうしても無理があるような気がするが、「竹田さん」のこの点への固執は、彼の現象学的な使命感とかかわりがあるようだ。彼は、現象学の課題は、さまざまな「世界観」のあいだの対立を克服することにあると見ている。宗教や思想などの「世界観」にもとづく対立は、それぞれの「世界観」がみずからだけが唯一の真理で、ほかはすべて偽りであるとして全否定すことに起因する。全否定しあうので、妥協の余地がなくなり、相手をつぶすしかなくなる。そこで「竹田さん」は、我々の意識体験には万人にとっての「共通項」があるが、それを「基礎」としながら、その「とらえ方」として成立する「確信」や「信念」は、文化や宗教、そして風土によってさまざまなかたちを取り得るという二層構造で、我われの認識を理解しようとする。基礎になっている「共通項」が「ある」と強調・確認することによって、世界観の対立をめぐる問題を解決できるというのである。彼は、現象学的な視点から見た「認識問題」を、以下のように特徴づけている。

  1. 「絶対的な真理」というものは存在しない。神のような超越性の視点を括弧に入れてしまうと、われわれが「真理」とか「客観」と呼んでいるものは、万人が同じものとして認識=了解するもののことである。人間の認識は、共通認識の成立しえない領域を構造的に含んでおり、そのため、「絶対的な真理」「絶対的な客観」は成立しない。
  2. しかし逆に、われわれが「客観」や「真理」と呼ぶものはまったくの無根拠であるとは言えない。そのような領域、つまり共通認識、共通了解が必ず存在し、そこでは科学、学問的知、精密な学といったものが成り立つ可能性が存在する。ニーチェウィトゲンシュタインを含めて、相対主義懐疑主義的な思考系譜は、総じてこの領域について適切解明を行なうことができない。[中略]
  3. 共通了解が成立しない領域は、大きく宗教的世界像、価値観に基礎づけられた世界観(その特殊性を強引に普遍化しようとすると「イデオロギー」となる)、美意識、倫理意識、習俗、社会システム、文化の慣習的体系等々である。およそ人間社会における宗教、思想(イデオロギー)対立の源泉は、この領域の原理的な一致不可能性に由来する。
  4. しかし、この認識領域の基本構造が認識され、自覚されるなら、そういった宗教、思想(イデオロギー)対立を克服する可能性の原理が現われる。すなわちそれは、世界観、価値意識の「相互承認」という原理である[中略]
  5. ここから、異なった世界観、価値観の間の衝突や相剋を克服する原理は、ただ一つであることが明確になる。すなわち、それらの「多数性」を相互に許容しあうこと、言いかえれば多様な世界観、価値観を不可欠かつ必然的なものとして「相互承認」することだが、この世界観、価値観の「相互承認」は、近代以降の「自由の相互承認」という理念を前提的根拠とする。

現象学は思考の原理である (ちくま新書)

現象学は思考の原理である (ちくま新書)

要は、「『同じもの』を違う視点から見ているだけなのだから、その『同じもの』を探求するのに際しては、お互いの自由を認め合おう!」という至極まっとうなメッセージである。しかし「まっとう」すぎて、哲学というよりは、まるでユネスコユニセフの会議、また世界の宗教指導者の対話などで採択される決議文のような「高尚」な感じがする。

不思議ですよね。なんでこんなアホみたいなジョーシキを、えらそーにフッサールにのせて説教されなきゃなんないの。何様?、おたく。まあ、ユング集合的無意識とかに似ているのかもしれませんかね。人類は共通の基盤があって、つながってる、みたいなことでしょう。だいたい、対立がないって、だれかが、隠微な独裁やってるってことですからね。それで、ルールをつくれ、の大合唱。開いた口が塞がりません。

フッサール現象学にはたしかに、「我われ」の生活世界が、「経験」にもとづくさまざまな「ドクサ(偏見)」の集合体としての信条体系----あるいは、それらをさらに体系化した「世界観」----によって形成されてくる仕組みを問題にしているところはある。だが、それらはあくまでも、我われの意識のなかで「生き生きとした現在」が、事後的に再構成されていくことにより、変容してしまうことを「確認」するためである。別に、「偏見」の根底に「共通項」としての「生き生きとした現在」があることを人びとに教えてやって、世界を救う処方箋にしようとしているわけではない。

ピントが外れて、そのまま、つっぱしってここまで来て、だれも、彼にアドバイスする人はいなくて、さて、これから、なにを発言してくれますかね。

デリダの遺言―「生き生き」とした思想を語る死者へ

デリダの遺言―「生き生き」とした思想を語る死者へ