もともと、フォークナー全集の解説として書かれたエッセイだと思う。大橋健三郎というのは、フォークナーの翻訳もやっている学者。柄谷さん自身、大学院時代は英米文学をやってるようなので。中上健次については、故人ですが、柄谷さんと仲がよかったようで、フォークナーを彼に紹介した仲だったそうだ。
そのことに関連して、私は中上健次のことを思い出す。彼は小説を書くだけでなく、郷里の新宮の被差別部落で運動を始めた。しかし、それは部落解放同盟に対立するものだった。解放同盟が糾弾によって法的・経済的な権限を拡張していくものだとしたら、彼がやったのは、部落の老人や青年を集めて文学や民俗学の話をすることだった(「部落青年文化会連続公開講座」1976年)。それは政治的にはまったく迂遠な方法である。彼がもたらそうとしたのは、人々の文化的な誇りでありプライドである。
「人々の文化的な誇りでありプライド」。こういうことを考えることはないものだ。
それにしても、フォークナーの作品を読んでいる人というのはどれくらいいるんでしょうかね。たしか、新潮文庫で、「八月の光」があったと思うが、あれにしても、ほんと、どれだけの人が読んだのだろうか。
しかし、たとえば、フォークナーの「ノーベル賞受賞演説」を思い浮かべればよい。小林秀雄がどこかでドストエフスキーの『作家の日記』を例にとって、優れた作家の理想は意外にも単純なものだという意味のことを書いている。人間の「悪」がどれほど深刻なものかを絶望的に知っている者だけが、次のような希望を語りうるのである。
私は、人間は単に生き永らえるのではなく、勝利すると信じます。人間が不滅なのは、人間が生きとし生けるものの中で唯一疲れを知らぬ声を持っているからではなく、人間には魂が、憐みを感じ、犠牲的精神を発揮し、忍耐することのできる精神があるからなのです。詩人に、作家に課せられた義務は、こうしたことについて書くことなのです。(「ノーベル文学賞受賞演説」1950年)
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