浅野裕一『儒教 ルサンチマンの宗教』

この本は、かなり変わっている。なぜそう思うかというと、宮崎市定論語の新しい読み方』なら、孔子そのものがどうだったか、については、それほどフォーカスしていない。むしろ、ひとつの考古学的文献としてみたとき、あまりにも、無理体な解釈、読み方をしていることが、あまりに変な文章なので分かる、そういうところにフォーカスがあった。
こっちは、さらに前進して、思いっきり、孔子そのものに向かうのだ。
孔子は、そんな聖人君子じゃなかったどころか、田舎の身分の卑しい奴でしかなかった。自分は身分が低すぎて、貴族の儀式を、一度として見たことがない。それを、超知ったかぶりで、子供たちに、マネさせる。なにも知らない、子供たちは、知らないだけに、このインチキをこれ以上ない位に感動して、さらに、孔子にのめり込んでいく。こんなことを続けて子供をだましていくうちに、孔子自身が、こんなに子供たちが自分にのめりこむということは、自分は国王になれるのでないか、と、身の程知らずの空想を始める。こんなことばっかりやっているので、周公の夢を見ることもあった。そうすると、さらに、実は、自分こそ、この世界を統べる国王にふさわしいのではないか、とその妄想は膨らむばかりだ。
しかし、なんで、こいつは、こんな田舎で生まれ、田舎から出ることもなく、井の中の蛙で、しかも、まったく貴族には絶対なれない、身分の低い生れで、なんで、天下統一ができるなどという、誇大妄想の塊になってしまったのだろうか。
まあ、こんな感じである。それで、私の考えなのですが、だから、結局、孔子というのは、論語にあるほど、キレキレではない、まあ、素朴だったのだろう、と思う。しかし、その後の歴史の中で、聖人とされていく。当然、その中で、論語そのものに、その不純な内容がすべりこんでくる。
それだけじゃなく、さらに現代まで続く歴史の中で、不純な夾雑物が、どんどん生産される。

儒教ルサンチマンの宗教 (平凡社新書 (007))

儒教ルサンチマンの宗教 (平凡社新書 (007))