東浩紀『思想地図 vol.1』

まず、ちょっと意外に思ったのは、萱野稔人が、彼の主張する、暴力というものの国家の形成について、それが現在のように前景化するのは、比較的近代だ、という発言です。

しかし近代になるとその暴力への権利はだんだんと一元化されていき、それによって私たちは暴力を自分の判断でもちいる権利を失っていきます。なぜそうなったのかといえば、銃の発明による軍事テクノロジーの発達や、貨幣経済の発達によって、暴力そのものが社会のなかで特定のエージェントのもとに集中してきたからです。(萱野稔人「共同討議 国家・暴力・ナショナリズム」)

かなり、ロバート・ケーガンネオコンの論理』

ネオコンの論理

ネオコンの論理

に近い考えの人なんじゃないですかね。
そもそも国家と暴力が等価みたいな言い方、ちょっと違和感があるんですね。だってその暴力装置は(自衛隊でも、警察でも、裁判制度でも)、税金で維持されているわけですよね。その元手のお金の出し入れをしている、財務省の権力でしょう。むしろ、国家とはそういう、構成員からさまざまにさまざまなサービスを収奪する装置と考えて、暴力はそのシステムをコントロールする一つの手段ですわな。
だから、国家という視点でみるなら、私有財産というのは、とたんにグレーになる。ほんとは、今私たちが「自分のもの」と言っているものは、そう言えるようなものなのか。国家というのは、私たちの所有財産を保証する機関ではない。むしろ、国家が個人に、「ある程度の私性を認めながら」結局は、本来の所有というなら、それは、国家のものだ、と、なるのではないか。つまり、「ある程度の私性」のところが、憲法や民主的システムの範囲が「主張」している、という範囲という意味で(こういうところにも、「メタ」の論理なんですね)。
暴力ということで言えば、べつに自衛隊がもってるような、何億もするものでなくても、むしろ、ちょっとしたモノでとても多くの人びとに甚大な被害を与えるものなんて、いろいろありえるわけだし、最近は、核を使った携帯用の武器だってあるんじゃないか、くらいに言われてるくらいですし。あまり、そこに国家の実体を見るような言い方は、むしろ典型的な物象化のようにも思える。
そういうところから、ナショナリズムに対して、みょうなリアリティや必然性や正統性、パワーが見出されていってるんでしょうけど、転倒してやしないですかね。
東浩紀の発言については、今回はあんまり気になるところはなかった。ただ、彼が丸山眞男に本格的にとりくもうとしているのかな、幾つか引用している部分が気になった。

丸山眞男の有名な言葉に、

我が国では私的なものが端的に私的なものとして承認されたことが未だ嘗てないのである。(丸山眞男超国家主義の論理と心理』)

というものがありますね。この私的なものの未承認は、公共性の不在と対になっている。日本では公と私が分かれていない。だから相互貫入してしまう。(東浩紀「鼎談 日本論とナショナリズム」)

私というものを意識しようとすると、そのそばから、公が侵食して、両方がグニャッとしたものとしてしか、つかまえられない。
赤木とかいうフリーターが、自分の労働環境がまったく改善していかず、将来に絶望する。それと同時に、日本が再度、戦争を行うことを熱望する言葉を吐き捨てる。まったく、私的なルサンチマンだし、本人自身がそれが個人的な内容物なことを分かっていてやってるところがある。しかし、これを批判するエスタブリッシュメントは、それらの発言をパブリックなコンテキストにひっぱってきて語ることしかできない。そんなような指摘がありますね。

61年の丸山眞男『日本の思想』にこんな一節があります。

こうして一方の極には否定すべからざる自然科学の領域と、他方の極には感覚的に触れられる狭い日常的現実と、この両極だけが確実な世界として残される。文学的実感は、この後者の狭い日常的感覚の世界においてか、さもなければ絶対的な自我が時空を超えて、瞬間的にきらめく真実の光を「自由」な直感で掴むときにだけに満足される。その中間に介在する「社会」という世界は本来あいまいで、どうにでも解釈がつき、しかも所詮はうつろい行く現象にすぎない。究極の選択は2*2=4か、それとも文体の問題かとちらかに帰着する!(小林秀雄『Xへの手紙』)

これは僕には、まさに「セカイ系」の話のように響きました。丸山はここで、日本人が確固としたイメージでとらえられるのは、絶対的な自然か日常的な現実かの二つだけで、あいだを繋ぐ「社会」がない、公がないと言っています。(東浩紀「鼎談 日本論とナショナリズム」)

セカイ系かぁ。
一時期、文法の話もされましたね。日本語は、本質的に主語が現れない。主語がないということは、主体がいない。主体がいないということは、客体もありえないでしょう。主客のある世界というのは、組合せ論のような感じですかね。逆に、主客がないっていうのは、どんな感じなのだろう。微分方程式みたいなものでしょうか。三次元グラフの等高線みたいなイメージでしょうか。なんだか分からない波のようなものが始まって、等高線がグニャグニャ動き始めて、いつのまにか、静かにおさまる。どこに?だれが?いたの?って感じ。
ちょっと関係ないけど、永井均独我論というのも、いろいろニーチェとか、ウィトゲンシュタインとか、ひっぱりだして語ってたけど、これも結局、日本語の文法の話をしてただけなんじゃないのかな。

NHKブックス別巻 思想地図 vol.1 特集・日本

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