柄谷行人「仏教とファシズム」

人によっては、一つ前のブログで、キリスト教について書いたので、今度は仏教だろう、と予測した人がいたのかどうかは、さだかではないが(そもそも、このブログを読んでる人なんているのか?)、正直に言えば、次に仏教について書こうと思って、前のブログを書いてた。
どうも、私は文章を「まとめる」というのが苦手だ。読みやすいように書くというのも苦手だ。漫然だらりと、思いつくままに、筆を進ませるのが性に合っているんじゃないかと思うのだが、そうすると、他の人がだれも読めない文章になってしまう。自分で読み返しても、この時何を考えていたのかすら分からない文章になりかねない。でも今回は、そんな文章にしてみたい。
掲題の論文において、まず書かれているのは、いかに仏教というのは本来「排他的」な攻撃的な宗教であったのか、ということである。

インドに生まれた仏教は極めてラディカルな思想であって、それを「移植」することはやはり「仏教外的な要素の徹底的否定」を要請したのである。そもそも、それはインドで消滅せざるをえなかった。また、仏教は中国で禅や浄土教として独自に発展したが、それも遺跡以外には消滅したのである。仏教が残っている、タイやカンボジアチベット、ネパールなどにおいては、それは厳重な戒律とともに内面化されており、それが「外来思想」として扱われることなどない。

柄谷さんは、ここから、ではなぜ、日本においては、仏教が雑然と保存されているのか、という問いを和辻哲郎の議論の延長で考察していくのだが、それについては、後で考察するとして、まず、私が最近読んでいた本について紹介したい。
この本は以下のような記述から始まる。

最近、つぎの一文を読んだ。石川九楊編『書の宇宙』(二玄社、1996年)に「中国における文字の成立」と題して収められている文章であって、石川氏とのインタビューに応じられた白川静氏の発言の記録である。

本来、中国には人間の運命を左右するような、人間の存在そのものを支配するような神という観念はありません。自然神と祖先神という、いわば二元的な考え方です。そういうことから言えば、中国には本当の意味での宗教はなかった。ですから、罪という意識や懺悔という意識はないし、復活という考え方もない。部分的にはそういうことを説くものがあっても、基本的にはたとえばキリスト教のような宗教というものはありません。

なるほど、本来の中国はそういうことなのかも知れぬ。だが、中国のすべての時代を通じてそのように言うことができるのであろうか。

中国人の宗教意識 (中国学芸叢書)

中国人の宗教意識 (中国学芸叢書)

なぜ、著者はこのように反発して、実際、この本を書いたのか。もちろん、多くの、過去の中国の知識人による、「罪の意識」や「懺悔」を思わせる文献が多く残されていて、研究者として、普通のこととして毎日読んでいたからなんでしょうね。
白川静が「中国に宗教はなかった」と言うとき、彼の頭には、古代中国がイメージされている。しかし、私たちが通常、中国というものを考えるとき、多くの場合、「仏教伝来後」をイメージしている。
こういう表現は、上記の柄谷さんの発言と矛盾しているように思われるかもしれない。
たとえば、一般に中国において、最初に、仏教が伝来された出来事の記述として、『後漢書』楚王英伝がある。紀元後すぐに仏教が伝えられてから、3世紀から10世紀くらいの、髄や唐の時代に、道教の拡大と並行するように、仏教の中国全土への普及が起こる。そしてその先進性は、まず、朝鮮半島において、繁栄を極めた後、日本にも輸入される。この辺りの記述は、日本書紀に詳しい。
しかし、この辺りの認識については、以前書いたように、むしろ、百済の傀儡国家的な様相を示しながら、その時代の日本の形成があったことを想起すると、むしろ、
日本というのは最初から最後まで仏教国家なのではないか?
という空想をしてみたくなる。そのことは、一見、明治以降の皇国思想と矛盾するように思われるかもしれない。本居宣長は、日本書紀の「前身」として、古事記を「発見」する。ということは、日本には仏教が導入される前に、「仏教以前の世界があったはずだ」。しかし、そうだろうか。日本の仏教受容は、日本書紀の最後において記述される。ということは、その最後以前は、非仏教的世界だったはずだ。そうだろうか。ヘーゲル弁証法ではないが、歴史は「最後において、最初を包含する」。最後において、過去を想起(捏造)するのが、歴史ではないのか。つまり、言いたいことは、少なくとも、日本書紀の編纂の時代、中国も朝鮮半島も日本も「仏教一色」だったということだ。
じゃあ、日本の神道をばかにするのかと言われるかもしれない。
神道の非宗教性が、仏教だろうとキリスト教だろうと、包含してきた。これが、和辻哲郎を始めとした、日本ナショナリストの認識であり、基本的に掲題の柄谷さんの論文もこの延長で書かれているが、それは、明治以降の「遠近法的倒錯」じゃないだろうか。
当然であるが、天皇家はそういうわけで、仏教徒だし(日本書紀仏教徒になったと書いてあるのだ。当然だろ)、日本の有力者はすべて、世俗を離れると、仏門に入った。
もっと言えば、本居宣長は、世俗生活において、自分が仏教徒であることを、一度たりとも疑ったことはないではないか。親族と同じ檀家としてあることになんの疑問ももつことなく、実際、若い頃は、普通に仏教を勉強していた。山崎闇齋もそうである。最晩年は、神道に目覚め、これこそ彼の到達点だと言うけど、最初は仏教を勉強してたわけでしょう。そして、朱子学に「転向」して、神道に「転向」して、というけど、もうしわけないけど、それ「仏教と何が違うんですかね」(朱子学が、当時の流行思想の道教や仏教を、さまざまに導入されたものであったことは、自明ですよね)。
神道に思想がないのは、むしろ、「仏教があるから」でしょう。仏教の「間」に存在を許されるためには、思想をもつことができなかったんでしょう?
しかし、ここで私が考えたいことは、そういうことにとどまらない。むしろ、インドというものの、ある意味での、普遍性についてと言った方が正確であろう。
前に古代ギリシアの思想家、ディオゲネスについて紹介したとき、アレクサンダー大王の遠征が、広く、南アジアを覆うものであったことの指摘があり、仏教にこだわることなく、むしろ、インドこそ、ヨーロッパを作ったのではないか、というような空想を思いついた。実際、サンスクリット語は、完全に、ヨーロッパ言語じゃないのか。アルファベットにしても、起源は、インドじゃないのだろうか。
ヘーゲルの時代になると、多くの、インド文献が、ヨーロッパの優秀な文献学者たちによって、紹介されるようになっていく(これについても以前書きましたね)。こういった文献を、最も、近代西欧哲学の文脈で、縦横無尽に渉猟したのが、ニーチェですね。
ニーチェキリスト教を批判するとき、彼のアンチテーゼとして、想起されていたのは、当然、「仏教」であっただろう。そう考えるなら、彼が、「神の死」を宣言した意味を、自分たちの都合のいいように読むことは許されないのではないか。
つまり、アンチ・キリスト、とは要するに、仏陀、のことでしかないんでしょ。
これを、明治以降の日本の知識人は「心地いい」オリエンタリズムとして聞いた。
やっぱり、西欧の近代知なんて、浅はかなんだよ。やっぱり、魂は東洋だ。
しかしね。ニーチェが仏教を「理解」できたのは、もともとの、西欧のルーツだって、「インド」だからじゃないんですかね。ニーチェは、キリスト教のアンチテーゼとして、仏教をもってきたんじゃなくて、「もう一つの」キリスト教に、入れ替えただけなんじゃないですかね。つまり、その時代の圧倒的な力(権力)に対抗する、パワーエートスとして、もう一つのキリスト教、つまり、仏教を反措定しただけなんじゃないか(その方が、晩年のニーチェの力の思想と、整合的なんじゃないな)。
なぜ、こんなことを書いているかと言うと、ここにどうしても、
ファシズム
の問題があるように思えてならないからですね。
ニーチェの正統なる継承者である、ハイデガーは、戦前にナチスを礼賛してから、死ぬまで、結局ナチスを否定することはなかった。日本の、戦前にしても、かなり積極的に仏教徒が関わっている。
どうも、仏教という「形而上学」のある要素が、ファシズムと通底しているんじゃないのか、という想定は、あながち、的外れでもないんじゃないだろうか。
まず、一つだけ言えることがあるとするなら、私たちが仏教と言ったときの、その「時間性」だ。あまりに、長い間、仏教と呼ばれているものが存在して、その時代時代でその捉え方があって、どうも一言でまとめられないのだ。
それでは以降は、もう少し、掲題の論文の柄谷さんの言う仏教の「世界宗教」性に焦点をあててみよう。

仏教はけっして「寛容な」宗教ではない。それはカースト社会とそれに対応する思想に対して、ラディカルに対決する実践的な思想であった。仏教は、あらゆる実体を諸関係の束にすぎないものとして見る。しかし、それが何よりも標的としたのは、輪廻、あるいは輪廻する魂の同一性という観念である。仏教以前に、カーストによる現実的な悲惨は輪廻の結果であると見なされ、そこから解脱する修行がなされてきた。ブッダがもたらしたとされるもののほとんどは、すでに彼以前からある。ブッダがもたらしたのは、このような個人主義的な解脱への志向を、現実的な他者の実践的な「関係」に転換することである。そのために、彼は輪廻すべき同一の魂という観念をディコンストラクトしたのである。ディコンストラクトと私がいうのは、仏陀は、同一の魂あるいは死後の生について「あるのでもなく、ないのでもない」といういい方で批判したからである。「魂はない」といってしまえば、それはまた別の実体を前提することになってしまう。彼は、実体としての魂があるかどうかというような形而上学的問題にこだわることそのものを斥けたのであり、人間の関心を他者に対する実践的な倫理に向け変えようとしたのである。

この辺りは、前回のイエスの引用とも似ていますね。ああいった「逆説的反逆」、つまり、宗教批判としての、あり方を想定するところが、柄谷さんの世界宗教論なのでした。
いずれにしろ、こういった運動が、何百年も続いて伝わってくるということがどういうことなのか、というわけです。それは、一言で言えば、「知識人の知」として伝わる、ということです。知識人や富裕層には、それなりの影響を与えていたことは確かだったとしても、ほとんどの大衆にとって、仏教など関係なかった。
日本でも飛鳥時代に仏教が伝来したといっても、それはあくまで、そういった特権階級にとってのものであったのだろう。そういう意味では、それはあくまでそういうレベルでの影響力であって、実際の大衆レベルでの日本人の生活には無縁だったと言えないこともない。
ところがそれが、まったく変わった時期がありました。

しかし、私の考えでは、仏教が日本に根づいたのは鎌倉仏教においてであるが、それは「日本化」されたからではなく、そこに仏教のテクストが本来はらんでいたラディカルな思想が改めて読みとられたからである。鎌倉は、京都から離れて、最初の武家政権が築かれた都市である。鎌倉は、京都から遠く離れて、最初の武家政権が築かれた都市である。仏教は、旧来の氏族社会(公家の支配)から封建体制(武家の支配)へ移行する過渡期において、旧来の解釈から離れて読まれたときに、「蘇生」したのである。それは仏教の「日本化」に見えるとしても、仏教の源泉への回帰である。

一般に鎌倉仏教における仏教の大衆的な広がりを、日本化(土着化)と考えようとする、日本の和辻哲郎的な日本論に対し、あくまで仏教のもっている世界宗教としてのポテンシャルに着目して論点を整理していこうという姿勢ですね。
しかし、それ以降の日本の歴史において、仏教がこういった形のパワーを示すことはなかったのではないだろうか(しかしそれは、別に仏教にとどまることではないが)。
日本では江戸時代に檀家制度が確立していき、より体制側に吸収されていきながら、その仏教の世界宗教としての思想的な部分が表面に現れることは現代までないと言っていいのだろう。
しかし明治以降、仏教は、知識人層の間で、一度、大きな焦点化がされることになる。それはもちろん、京都学派である。戦中の大東亜共栄圏を構想するとき、アジア主義とは、「ヨーロッパに対抗してのなにか」であった。
戦局の悪化と並行して、西田幾多郎は自らの思想を、仏教(禅)との関係で、読み直そうとする。

西田は1934年頃から自らの立場を「東洋的」とか「仏教的」といいだしたが、そのこと自体、彼の思想が歴史的状況に属していることを証している。それまで、彼はつねに西洋哲学のタームで語ろうとしてきたし、実際、彼がいう「無の場所」は、カントの超越論的統覚に対応する。カントは、それは経験的には無であるが、意識の統一をもたらす「働き」として捉えている。西田は、フィヒテと同様に、この超越論的自己を実践的なものと見なしてそこから世界を構成しようとしたが、フィヒテとは違って、あくまでそれを「無の場所」あるいは「無の働き」として見ようとした。

つまり、西田の認識は本当に仏教なのか、という疑問なんですね。彼は若い頃は、ずっと西洋思想ばっかりやってきていた。ようするに、上記の引用でいえば、カントの超越論的統覚のアナロジーを仏教の中にみいだそうとしていたというだけなのではないか。
そうしたとき、カントの超越論的統覚をどういった解釈の下で再構成しようとしていたのか。そこに、柄谷さんらしい、ある種のロマンティシズムを読み取ろうということなんでしょうね。ハイデガーにおける、ドイツロマン派の影響、日本の日本浪漫派の活躍。
ファシズムを、ロマンティシズムとして考えようとするとき、その知識人にとっての仏教とは、その仏教が本来もっていた、仏陀世界宗教性ではなく、その仏陀が批判していた、土着的慣習を回帰、再評価しようとする、反動的な様相を示すことになる、と(そういった傾向を、ハイデガーと並行して考えようということなのでしょう)。
そういった流れにある中で、同時代的にこのファシズムに抵抗しえた側として、掲題の著者は坂口安吾武田泰淳をあげる。

以下の序論で述べるような、ファシズムの論理としての仏教に対して最も本質的な抵抗を示したこの二人が僧侶出身者であったこと、いいかえれば、この種の仏教を解体しうる論理も仏教に由来するということである。

まあ、ある意味、こういった問題は、なんにも終わっていないということなのかもしれませんね。また、ファシズムが復活するときがあるとして、その時、また仏教がその理論を補強するものとして再度使われることになるのかもしれない。
こうやって、ちょっと仏教について書いてみたく思ったきっかけは、いつものとおり、アニメ「Angel Beats!」を見ていてなのだが(すみません。いつもの、アニメおち、で)、この作品自体は、今までのアニメの、ごった煮みたいな内容だが、一点違っているのが、「みんな死んでいる」ということだ。
みんな学校で、勉強している学校の話。
であるのに、唯一点違っているのが、みんな死んで、「ここに来た」ということ。
彼らは戦っている。なぜか。なぜ戦っているのか。
それを、成仏への抵抗として描くわけですね。彼ら一人一人が、なぜ死ぬことになったのか。みんな悲惨な不条理な理由によって、若くして死ぬことになる。子供たちが道半ばで死ぬことになること自体が、悲惨なことですが、そういった事態が、なんの理屈の下に、受け入れなければならないのか。
そういったとき、彼らの「死んでたまるか」(成仏してたまるか)というアナロジーが示唆されるわけですね。
しかし、彼らは誰と「戦う」のか。
リーダのゆりは、成仏を拒否するために、なんとか「神」を探し出し神に辿り着くことが目的であると言う。ところが、彼らがその神のとっかかりと考えていた、「天使」と呼んで、敵対していた、生徒会長の、
たちばなかなで。
彼女は第5話において、実際は「自分たちと何も変わらない」ということが、分かってくる。
彼女が彼らと今まで戦っていたのは、生徒会長としての責任感から「だけ」だったのではないか。主人公の音無(おとなし)は、テストで彼女に0点の答案用紙とすり代えるため、彼女の名前を確認しようと、職員室へ向かおうとして、クラスを飛び出ようとすると、誰かに袖を掴まれる。かなでが、彼を心配して、呼び止めてくれたのだ。
私たちは、学校において、いかにテストが重要な行事であるかを知っている。成績によって、その後の人生が決まってしまう。子供たちは、日々、テストのプレッシャーと戦っている。成績が悪かったらどうしよう。何分後かに始まるテストから、目の前から逃げ出したくなる。しかし、そうやってテストを受けなかったらさらに事態は悪化する。
そのとき、生徒会長のかなでが呼び止める。「もうテストが始まる」。今、教室から逃げ出すことは、テスト0点を意味する。
多くの子供たちは思っているのではないだろうか。あのとき、自分を引き止めてくれる「かなで」がいたら。あのとき、自分が勉強するように励ましてくれる「かなで」がいたら。
あのとき、「かなで」がいたら...。
彼らの戦略によって、生徒会長はテストオール0点になり、教師たちの糾弾をあび、生徒会長の地位を降ろされる。それによって、生徒たちの信頼を失い、彼女は孤立する。
ほんとは、生徒会長は「いい奴」だったんじゃないか。
自分たちの仲間なのじゃないか。
自分たちは程のいい「いじめ」をやってただけではないのか。
正直言いまして、私はあまりこの後の展開に期待できない。どういうふうな展開をみせるにしても、上記の議論の展開を考えても、あまり、明るい展望は望めないだろう。いずれにしろ、アニメ「コードギアス」のような最低の展開だけはやめてほしいところですけどね(それについては、以前書きました)。
あるのでもなく、ないのでもない。
ロマンティシズムのように、現実の困難を別のイメージで「救済」するのでもなく、はたまた、大衆のもつ不条理の感情から、距離を置くのでもなく寄り添いつつ、その中間。しかし、その間とはなんだ。
死とは「存在」ではない。死がなんらかの後悔と一緒に語られるとするなら、それは「この世界の問題のはずだ」。だから、問題は最初から、この世界のはずなのだ。ここで何を行うのか。その実践的な日々の取り組みの中にしか答えはない。こういったことが、しかしこの後の展開において語られうるだろうか。
自分がこのアニメのこれからにあまり期待できない理由は、こんなところじゃないかと思っている。

批評空間 (第2期第18号)

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