小熊英二『社会を変えるには』

3・11以降、掲題の本のように、もう一度、「全体」として、社会を通時的に捉え直すような、議論が増えているように思われる。
私たち「人類」は、有史以来、悩み考え、試行錯誤して生きてきた。現在「こう」あるのは、その結果にすぎない。それ以上でも、それ以下でもない。3・11は、それまで「平和」であった「日常」に、一つの悲劇をもたらした。ということは、
なぜ
それは、悲劇でなければならなかったのかを理解しなければならない。マルクスが言うように、私たちは往々にして自分が行っていることを知らずに行う。だとするなら、こうやって、何度でも「過去」を、捉え直そうとすることは、必須の作業であろう。そしてこの作業は、3・11という「悲劇」が私たちに強いるものでもある。
日本の大衆運動を考えたとき、どうしても避けらないのが、60年代であることは言うまでもない。しかし、それが結局のところ、なんだったのかは、当事者の「体感」とは、少し違った視点で考える必要があるように思われる。

六〇年安保に参加したある大学の自治会委員は、こう述べていました(大歳成行『安保世代1000人の歳月』)。「のくは昭和十三年生まれで、いちばんもののない時代に育ち、戦後のひもじさをいやというほど体験しているわけです。[安保改定が通ったら]ああいう時代にまたなるのではないか、という恐怖感から安保闘争に立ち上がったんです。戦争とひもじさだけはもうごめんだ、という気持ちが強くて」。

六〇年安保と今の反原発運動は非常によく似ている。それは、人は訴えたいことがあるときは、なにも言われなくても、動く、ということだろう。あの時期の大衆にとって、

  • もう戦争はこりごり

というのは、非常にリアリティがあったわけだ。だから、多くの階層の人たちがボランタリーに、加わっていった。
他方において、60年代後半の全共闘運動は、学生中心の、本来の端緒は学生たちにとっての「学内問題」に端を発していた、学生「の」問題であった。

全学連」と「全共闘」はどこが違うのか。一言でいうと、前者は共同体の集まり、後者は「自由な個人」の集まりです。全学連は、自治会組織が連合したものです。それにたいし、全共闘は個人の自由参加でした。

だからこそ、この活動は、大きな盛り上がりを示すとともに、その運動の衰退に向かう。しかし、あれほどの規模に拡大した活動が、そう単純に衰退局面が過ぎ去ることはなかった、ということなのだろう。

大学を占拠して泊まりこんでいると楽しいですが、お祭り気分で盛りあがれるのは一ヶ月です。だんだん新鮮味がなくなって、けんかがおきたり、炊事当番でもめたりして、人が来なくなってきます。全共闘は自由参加・自由脱退が基本ですから、運動が上げ潮のときはいいですが、長びいて下り坂になってくると弱い。
そうなってきたときに、残った姿勢のしっかりした者は、セクトのメンバーが多かったりしまいた。しかも、セクトのメンバーに頼むと、いざというときにセクトの仲間を他の大学から動員してくれる。やっぱりあいつは頼りになる、じゃあ自分もセクトに入ろうか、しっかりマルクス主義と運動のやり方を学ばないとだめなんだ、といったことになっていきます。

しかし、たとえそうだったとしても、衰退は漸進的に進み続ける。しかし、その衰退期の特徴をもって、全共闘運動の本質を捉えることはできない。初期、最盛期の、この運動の特徴が、「個人の自由参加」であったことは、まぎれもない事実なのだから。
上記の総括によって、掲題の著者の、この後の論の展開は決まったと言っていいだろう。
例えば、古来より、直接民主制がなぜ「説得力」を現場に与えるのかは、たんに、論理的なことだけではないことが強調されます。

さらに議論が行なわれますが、重要なのは相手を言い負かすことより、みんなで盛りあがることです。盛りあがったあとに決をとるのですが、個別の意見を寄せ集めるだけなら、なにもわざわざ集まって議論をする必要はありません。世論調査みたいに、紙かメールえに○か×をつけて集めればよろしい。いまの日本の議会みたいに、形式だけ「議論」をやっているくらいなら、そのほうが効果的です。それでもなぜ議論をしなければならないのかといえば、意見交換をすることが大切だとか言われがちですが、ようするにそうしないと「みんなが納得しない」からです。
ではなぜ、そうすると「みんなが納得する」のか。「これには反対だ!」「私はこう思う!」と議論をかわし、場が盛りあがったときに挙手を求めます。これは投票箱に紙を入れるなどというものではなくて、その場でワーッと挙手したほうがよろしい。そこではじめて、個別の意見の寄せ集めではない、「民意」がこの世に現れます。

もし「あなた」が、その決定の「場」に「共存」していたとき、もしも、その決定に言いたいことがあったなら、あなたは、その場で、

  • なにかを言わずにいられない

はずです。人間なんですから。そうして言った主張が、最終的な決定と同じであったとしても、違っていたとしても、「あなた」の中には、なんらかの満足感が残ります。なぜなら、多くの人は、「あなた」の意見を聞き、その内容をふまえた上で、決断してくれたはずだから、それなりに「バランス」をとれたものになっているはず、という直観があるからです。説得とはそういうもので、むしろ、聞いてもらえて、納得してもらえて、理解してもらえていると思えるなら、

  • 自分を分かってもらえた

という相手から与えられる自尊心に繋がるわけで、たんに勝ち負けではないことが分かるでしょう(そういった、「信頼」関係があるなら、この先においては自分の考えを尊重してもらえるケースもでてくると思えるわけで、つまりは、長期的には、あらゆることが、「うまく回る」と信じられるわけですから)。
例えば、現代社会を最も特徴付けるものを一つあげるなら、それは「自由」であろう。しかし、では、自由が「進展」することが、なにを意味しているのかは、そう簡単なことではありません。
自由であるということは、あらゆる「選択」の可能性に開けていることを意味します。しかし、そういった「選択肢の多様化」が、「なに」によって成立しているのか、は簡単ではないでしょう。
多くの選択肢を「用意」することは、それだけコストがかかります。そして、そもそもの問題として、「どうやって」私たちは、その中から「選べる」のでしょうか? なぜ、そんな多様な選択肢から選べると思えるでしょうか。そのクライテリアは一体、どこにあるんでしょう?
「自由」とは、むしろ、選択することを不可能にするのです。つまり、「自由」とは、選択という行為を別のなにかに変えることを私たちに強いる認識であることを理解する必要があります。

現象学の考え方からすれば、こちらが何かすれば、相手も影響を受けて変化します。そうなると、行為をする以前の情報や、それをもとに立てた予測は、役に立ちません。新しい情報を入手したとしても、情報を収集したという行為そのものが相手に影響するので、また変わってしまう。さらに相手が変わると、自分も影響を受けて変化するので、安定した予測や行動ができない。
もともとデカルトは、人間どうしが争うよりも、自然を征服して平和を築いたほうがいい、と考えていました。ですから、人間が自然を操作することは考えてはいても、人間が人間を操作することまで考えていたかは、わかりません。
現代の社会で増大しているのは、自由の増大というよりも、こういう「作り作られてくる」という度合いです。ギデンズは、これを「再帰性の増大」とよびました。

もし私が意見を変えれば、相手はそれを聞いて自分の意見を変えます。すると、今度は私が変わります。この無限の相互作用を「人間関係」と呼びます。そのように考えたとき、ある一瞬のスナップショットを切りとって、そこでの意見の差異に、こだわることは、あまり建設的な方法でないことが分かるでしょう。
むしろ、この「過程」を、ダイナミックに把握できる方法論が求められています。
「自由」であるということは、どんどん、時間が進むと共に、自分が「変わる」ということと同値です。意見が変わると共に、また、以前と同じ意見に戻ることも普通に起きます。
「自由」であるということは、確固たる自分がない、ということでもあります。というか、そういった「表面上の形」を他者から強いられていない、ということなのです。
人間社会がそういった方向に向かうということは、当然、社会インフラ、福祉政策の考えも変わっていかざるをえません。

まず従来の福祉政策は、問題が発生したら対処する、という発想をしています。失業したら失業保険を出す。離婚して母子家庭になったら手当てを出す。病気になって医者にかかったら保険が適用される。陳情やロビイングがあったら対応する。こういう発想です。
こうした従来の発想の問題点は、問題がおこってからでは遅すぎること、また問題がおこってから対処したのではコストが高すぎることです。病気になってから保険が出るより、病気にならないほうがいい。病気にならない予防知識を普及させれば、支出が抑えられて、財政にとっても個人にとってもいい。

その人が「そうあれる」ということは、「他でもありえる」ということを意味します。もし、それがかなわないとするなら、その人は、ある「病気」を深刻にこじらせていることを意味します。「病気」にかかることは、人間にとって避けられない不可避なことだとしても、なるべくそうなる前に予防することは可能です。むしろ、そういった予防的視点なしに「自由社会」は維持されえません。「自由」だからこそ、危険な罠に陥りる歯止めがないわけで(禁止されていない)、むしろ、「自由」と「予防」は、ワンセットのアイデアです。
では、「個人が自由参加」する形の、この「社会システム」は、具体的には、どのような人々の行動によって、構成されているのでしょうか。

鍋の特徴は、みんなが参加して作ることです。そこで共同作業をやり、対話しているうちに、「われわれ」意識が生まれます。みんなで作るのですから、料理に失敗しても、誰も文句を言いません。かえっておもしろがって食べたりします。材料を買ってくるところから話しあえば、さらに不満は少なくなります。クレームが減るというだけでなく、作業に参加して話が十分できるので、満足度も高くなります。
また鍋のいいところは、不満が少ないだけでなく、コストが安いことです。材料はそんなにお金はかかりませんから、会費が安い。調理人がいらないので、お店にとってもコストがかからない。お金というのは関係が物象化したもので、関係の代役として入り込んでくるものですから、関係が充実していればいるほど、お金はかからなくなります。
そこで幹事がやるべきことは、みんなが作る場を設定することです。権力もある意味では関係の代役として入りこんでくるものですから、関係が充実していれば権力は少なくてすみます。過剰に権力が干渉して、めんどうをみすぎると、関係が失われます。

「個人が自由参加」するということは、参加する側に、「操作」感、「制作」感を与えることを意味します。ということは、その人がその今の結果生まれた今の現状を、「変更」することに対しても、イメージを残すことになります。
よく考えてみると、私にはこういった方向は必然のように思えます。よく、プライベートとパブリックを分けて考えます。パブリックなことは、自分一人のことじゃないんだから、自分の「わがまま」を通そうとしてはダメだ、と。しかし、だとするなら「誰」の「わがまま」だったら通るのか、ということになるでしょう。だって、どっちにしたって、

  • だれかの「わがまま」が通って「そう」ある

のだから。だったら、その「パブリック」というのは、おかしいんじゃないのか、という考えにならないだろうか。そこは「パブリック」なのじゃなくて、「プライベート」なのだ。だって、少なくとも「自分」は、そこを「プライベート」に感覚しているのだから。
おかしいと思ったら「おかしい」と言う。
そして、その自分が「プライベート」に感じている空間に、自分が働きかけることで、その様態を変えていく。そうやって、

  • 自分の「プライベート」な空間

を変えていくことなしに、社会を変えている、と思えることはないのだから...。

社会を変えるには (講談社現代新書)

社会を変えるには (講談社現代新書)