正義論序説:おわりに「政治とは何か」

近年のネトウヨの大衆的影響力の拡大の問題を考えるとき、いわゆる「新しい歴史教科書を作る会」が主張した、「自虐」という言葉がある。この言葉の何が、問題なのかというと、つまり、

  • 自分語り

の構造になっているから、なのである。自己言及的なのだ。政治とは、本来、他者に自分が何かを要求したり、相手の要求に合意したりといったように、他者との共同生活を実現するための、

  • 要求のキャッチボール

を実現するための場という特徴があるわけで、ここで、例えば誰かが、

  • 自分の過去のサクセスストーリーを延々と話し始めた

場合に、それが何を意味しているのか、ということになるわけである。その人は、なぜ、そんなことを話しているのか。自慢したいのか、暇なのか、あるいは、たんに話をすることが好きなのかもしれない。
いずれにしろ、そういったことを人々は聞いている時間があるほど、暇ではない、ということなのだ。
あらゆる、システムは「シンプル」であることを求められる。それは、

  • システムの<倫理>

とさえ言ってもいいくらいに重要な命題であり、それに、この「自己語り」は違反しているわけである。
晩年のハンナ・アーレントは、カントの判断力批判を政治哲学として読解することで、近代政治学が、完全に「大衆政治」として変貌していく姿を肯定的に解釈していく。
そこでの特徴は、例えば、ケインズの「美人投票」がそうであるように、そもそも、

  • なにについて大衆は投票しているのかを<決定できない>

というところに特徴がある。つまり、この「ゲーム」は、なにをやっているのかが、結局のところ分からない、ということである。なぜか、大衆は投票し、なぜか、だれかが当選するのだが、なぜその人に多くの大衆が投票したのかは、結局、よく分からない。
それは、一種の「英雄の否定」であり、政治の「観客化」でもあるわけだが、現代を代表する、こういった「大衆政治」は、こういった「ミーム」という、シニフィアンだけが、社会を埋め尽し、人々を動機づけ、動かしていく、なんとも定義できない集合知的なものだけが、もぞもぞとうごめいている社会像を示しているわけである。
さて。
人々はこういった「よく分からない」合意の地平にいつまで満足し続けられるのか。ヒトラーのような「分かりやすい」ファシストの甘言に、どうしようもなく魅かれ、ハーメルンの笛吹きに導かれるように、全体主義の海へと次々と飛び込んでいくのではないのか...。
東京都知事選での田母神さんの高得票は、強烈に戦前を想起される。戦前も同じように、陸軍が大衆のポピュリズム的な人気と期待を抱かせ、実際に、政治的な希望を人々が、軍隊に対して抱くようになっていた。田母神さんという元自衛隊の人にここまでの、投票が入ることが、一つの戦前の雰囲気に近くなっていることの証左なのかもしれない...。)