正義論序説:第一章「ベンサムの功利主義」

ベンサムが提唱した功利主義の特徴は、そもそも、どういったところにあったのだろうか。

悟性の論理学と同様に、意志の論理学がある、むしろなければならないといったほうがよいであろう。意志のはたらきは悟性のはたらきに劣らず、法則によって記述されることができるし、またそのように記述される価値がある。

世界の名著 (49)ベンサム/J.S.ミル (中公バックス)

世界の名著 (49)ベンサム/J.S.ミル (中公バックス)

ここにおいて、ベンサムは何を言っているのだろうか? ベンサムは、

  • 意志は「計算」できる

と言っているのである。人間の意志は、なんらかの測りによって、決定される。人間は「計算可能」だと言っているのだ。
ベンサムは、人間は、ある「測り」によって決定される、という。ベンサムにしてみれば、人間は、ある二つの概念によって、人間を完全に記述できるのだ、と言うわけである。

自然は人類を苦痛と快楽という、二人の主権者の支配のもとにおいてきた。われわれが何をするであろうかということを決定するのは、ただ苦痛と快楽だけである。一方においては善悪の基準が、他方においては原因と結果の連鎖が、この二つの玉座につながれている。苦痛と快楽とは、われわれの考えるすべてのことについて、われわれを支配しているのであって、このような従属をはらのけようとどんなに努力しても、その努力はこのような従属を証明し、確認するのに役だつだけであろう。ある人は、ことばのうえではこのような帝国を放棄したように見せかけるかもしれないが、実際は依然としてその帝国に従属し続けている。功利性の原理はそのような従属を承認して、そのような従属をその思想体系の基礎と考えるのである。そして、その思想体系の目的は、理性と法律の手段によって、幸福の構造を生みだすことである。このような原理を疑おうとするもろもろの思想体系は、意味のかわりに空言を、理性のかわりに気まぐれを、光明のかわりに暗黒を取り扱っているのである。
しかし、たとえや熱弁はもうたくさんだ。道徳科学はそのような手段によって改善されるのではない。
功利性の原理は本書の基礎である。したがって、最初に、そのことばが何を意味するのかということについて、明快決定的な説明を与えることが適切であろう。功利性の原理とは、その利益が問題になっている人々の幸福を、増大させるように見えるか、それとも減少させるように見えるかの傾向によって、または同じことを別のことばで言いかえただけであるが、その幸福を促進するようにみえるか、それともその幸福に対立するようにみえるかによって、すべての行為を是認し、または否認する原理を意味する。私はすべての行為と言った。したがって、それは一個人のすべの行為だけではなく、政府のすべての政策をも含むのである。
世界の名著 (49)ベンサム/J.S.ミル (中公バックス)

ベンサムに言わせれば、人間は、「苦痛」と「快楽」によって、完全に「決定」する、と言っているわけだ。これは、

  • 論理学

だと言っているのである! 「苦痛」と「快楽」の両方に言えることは、この二つは、「生物学」のカテゴリーだということである。両方とも、動物が人間と同じく「反応」する性質のもの、だということである。
つまり、ベンサムは典型的な、生物学「還元」主義者だということである。社会進化論のスペンサーが、進化を、社会学に応用したように、生物学の概念を、人文科学に適用すれば、

  • あらゆる人間の「意志」は説明可能となる

というわけだ。人間は生物だ。だから、人間の「科学」は、生物学によって、記述される、というわけである。
しかし、なぜベンサムはこんなことを言ったのか? それは、彼自身が言っているように、

  • 道徳科学

を作るため、なのである。つまり、彼は大真面目に、

  • 道徳「なしで」道徳を作ってみせる

と考えている! つまり、道徳の「起源」は科学によって決定するのだ、と言いたいわけである。
ここで大事なポイントがある。彼は、ある人その一人がどうすべきなのか、みたいな倫理的な問題だけを言っているのではなく、

  • この問題にコミットしているすべての人々

にとって通用するなにか、つまり、例えば、法律や国の政策を決定するときに、

  • その「正しさ」を担保する<科学>

をいかに「構築」できるか、と問うているわけである。
上記のベンサムの議論は、非常に野心的であるわけだがw、そこには、幾つかの議論を避けられない論点がある。

上記の何が問題なのか。それは、「苦痛」と「快楽」が、生物学のカテゴリーとして問題だと言っているわけではない。その生物学としての「存在」と、実際に私たちが意志表示などの行動をしたりすること(つまり、政治学)を、なぜ

  • 相関がある

と考えなければいけないのか、という、そもそも論なのである。
例えば、私たちは、ある肉体的な苦痛を感じることがあったとする。もちろん、そういったことがあれば「反射的」には、それを避けようとするであろう。実際に、動物を「観察」すれば、そのように振る舞っているように見える現象に多くぶつかる。しかし、実際の私たちの行動においては、そこまで、「単純」ではない。一見、それをやることが他人からは苦痛にしか見えないことでも、あえて、それを引き受けて行動している場合はよくある。そして、本人自身がそう言う場合さえある。
しかし、このように言った場合に、次のような反論がある。つまり、「だとするなら」、実は、その本人は、それに「快楽」していたのだ、と。
つまり、ここにおいて、「苦痛」と「快楽」の二つの言葉は、マジックワードとなったのだ。
「苦痛」と「快楽」によって、あらゆる道徳を基礎付けると言っておきながら、あらゆる行動は、「苦痛」と「快楽」と同一化して説明する作法が許される時点において、「苦痛」と「快楽」という言葉は、そもそも、何も言っていないのと変わらないトートロジカルな無定義用語だ、ということになる。
「苦痛」だろうが、「快楽」だろうが、なにか行動すれば、それが快楽「だった」とされるし、なにか行動を避ければ、それが苦痛「だった」とされるんだったら、最初から、「苦痛」や「快楽」という言葉を使わないべきだ。だって、なにも説明になっていないのだから。
さて。
何が問題なのか。それは、そもそも、生物学における「苦痛」と「快楽」とは、動物を「観察」することによって、その「行動」から、そう判断した内容だった、はずでありながら、ここにおいて、人間に「苦痛」と「快楽」の概念を適用しようとするとき、だれも、

  • その行動から、「苦痛」と「快楽」を分類しなけばならない

と思っていないことなのだ。つまり、これは人間の「再帰性」に関係する問題なのだ(このことについては、最終章であらためて、検討する)。
たとえば、ケインズの考えた「美人投票」についても、ベンサム功利主義の視点から見たとき、本質は、人々が「なぜ投票したのか」ではなく、

  • その人は「こう投票しなければならない」、という「意志」は論理的に決定している

というところにある、と考えられるのではないか。だから、「計算」できるのである。つまり、ベンサムは、実際のケインズ美人投票の「結果」は

  • 間違っている

と言っているわけである。彼は、実際に、大衆がどう行動するのかは、本質ではないと考える。それは、大衆の「想像」であって、本来、大衆は、上記で指摘した、生物学的な、「苦痛」と「快楽」によって、「決定」されているのだから、投票などやる必要がないのだ。いや、むしろ、投票は、真に、大衆が求めているものと、逆の結果を導いてしまう可能性さえある、とさえ言うのだ。

それはむしろ、もっと広い意味で、気まぐれの原理 the principle od caprice と名づけられたほうがよかった。それは、命令または禁止、報償または刑罰のためにもちだされる、行為の選択に適用される場合には、[ひところで言えば、課せられる義務の主体となる場合には]本文のように、共感と反感の原理 the princciple of sympathy and antipathy と呼ばれるのが適切であろう。しかし、このような名称は、権利を主張しうる資格の源泉となりうる、出来事の選択の場合には、適切ではない。そのような場合には、禁止または許容される行為、すなわち、義務と権利は、すでに確定されているので、唯一の問題は、ある人はどんな状況のもとに権利を与えられ、また義務を課されなければならないかということ、すなわち、どのような事情によって、ある人に権利を与え、または権利を拒否し、または義務を課さなければならないと考えられるかということである。このような場合には、幻想的な原理 the phantastic principle と呼ぶことがもっとも適切であろう。共感と反感とは、感覚的能力による感情である。しかし権利、特に功利性と関係のない理由にもとづく所有権に関する資格の選択は、多くの場合に、感情ではなく、想像力の所産なのである。
世界の名著 (49)ベンサム/J.S.ミル (中公バックス)

ある意味において、ここで、ベンサムが言っていることは非常に興味深い。ベンサムは、広い意味での「気まぐれ」であり、つまりは、「共感」と「反感」を、彼の考える「功利」性に反するものであり、もっと言えば、これらは「想像」であり、彼の考える功利計算から排除すべきだ、とさえ言っているように聞こえる...。