少し旧い記事だが、以下のブログの記事はなかなか興味深い印象を私には与えた。少しその文脈を追ってみよう。
「動物が苦痛を感じているとも、植物が苦痛を感じないとも、確実に言うことはできない」(倫理に関する事実判断と価値判断についての私見) - 道徳的動物日記
- 殺していい<人間>がいる
という主張の意味の説明から始まる。
まず、シンガーの理論によって「植物人間の命を絶つこと」が肯定されるのは、該当の植物人間が「意識が無く痛覚やその他の感覚も一切機能しておらず、また将来回復する見込みもない」という非常な重症である上に、その植物人間に親戚や知人が一切おらず、また植物人間の命を絶つことが明るみに出て社会不安などの間接的な影響が生じる可能性も0%である、という時でしかない。
「動物が苦痛を感じているとも、植物が苦痛を感じないとも、確実に言うことはできない」(倫理に関する事実判断と価値判断についての私見) - 道徳的動物日記
この記述が私には、人工的で危険な主張だと思うわけだが、その理由は、それぞれの「条件」が、それぞれの生きて生活している人間には
- 判断不能
な条件ばかりでありながら、ただひたすらシンガーは
- 殺していい<人間>の「存在条件」
だけは「真理」として決定している、と主張していることだろう。だれにも、だれを殺していいのか分からないが、殺していい人がいることは間違いない、という主張は、ようするに
- 神の視点
を代入しているという意味で、私には一般道徳としてふさわしくない、という意味で危険だと思うわけである。
そして、もう一つの特徴は、このように主張することで、ピーター・シンガーはカントの「人間の尊厳」を
- 否定
している、ということである。ようするに彼はカントと戦っているのだ。
しかし、ここでの問題はそこではなく、なぜシンガーがこのような主張をしているのか、というところにある。それが功利主義なわけで、それは二つある。一つ目は
- 幸福
である。「幸福=反苦痛=快楽」の「条件」に合わない場合は、人間を「殺してもいい場合がある」ということを意味する。二つ目が、
- 動物
である。人間を「殺していい場合がある」ことに反比例するように、動物を「殺してはならない場合がある」というわけである。
しかし、このように言われるとき、私たちは近年のある傾向のことを思い出さずにはいられない。それが
- AI
である。
たとえば、科学技術がすごく発達して悲しみや喜びを経験できるロボットなり人工知能なりが登場するようになれば、当然、そのロボットや人工知能は道徳的配慮の対象となるだろう(そんなロボットや人工知能が登場することがどれくらい現実的なのか、わざわざロボットや人工知能が悲しみを感じられるようにすることに何の意味があるかはわからないが)。
「動物が苦痛を感じているとも、植物が苦痛を感じないとも、確実に言うことはできない」(倫理に関する事実判断と価値判断についての私見) - 道徳的動物日記
近年のAIシンギュラリティ論において、近いうちに
- 人間を超えるAI
の存在が議論されている。人間を超えているのだから、そういったAIは、人間と同様に「快楽」や「苦痛」をもっているだろう。言うまでもなく、「自己意識」をもっているだろう。さて、私たち人間は、シンガーがある幾つかの動物に対して「最大多数の最大幸福」を求めたのと同様に、
- 彼らAIの「最大多数の最大幸福」
を求めるのだろうか? なにせ人間を超えているのだ。むしろ、人間を「犠牲」にしてでも、彼らの「最大多数の最大幸福」を目指さなければならないのではないかw
人によっては、なんか変だな、と思ったかもしれない。つまり、昔から功利主義には
- 人間中心主義を止めるために選ばれたはずなのに、より人間中心主義的な理論になっている
といった批判があるわけであるw
植物の専門家である植物学者が植物は苦痛を感じないと言ったとしても、科学は絶対ではないし植物学者は神様でないから疑ってかかることはできる。動物が苦痛を感じるかどうかということについての科学的研究も、「人間が持っているような、あるはそれに類似した、生理学的・解剖学的特徴を持っているか」「刺激に対して苦痛を感じているように見える反応をしているか」といった、人間との類似を基にしたアナロジーに頼らざるをえない部分はどうしても出てくるかもしれない。...このような事情をふまえて「動物が苦痛を感じるかどうかの理解の仕方は、結局、人間中心主義的にならざるをえない」と
「動物が苦痛を感じているとも、植物が苦痛を感じないとも、確実に言うことはできない」(倫理に関する事実判断と価値判断についての私見) - 道徳的動物日記
シンガーの言う「最大多数の最大幸福」が求められる動物とは、「感情」「快楽」「苦痛」「自己意識」といった、
- 人間に<非常>に近い
神経組織をもった存在に対して言っている、というニュアンスが強い。だから、イルカやサルといった哺乳類は、より「最大多数の最大幸福」の対象としなければならない、といった色彩を帯びる。しかし、そうなると、昆虫や植物はどうなるのだろう? といった、素朴が疑問が湧いてくる。
それに対して、上記のブログは何を言っているかといえば、
- 昆虫や植物も<苦痛>を感じているかもしれない
(まあ分からない)ということを示唆するところで終わっているわけで、なんともお茶を濁したような結論になっている。
さて。今さらこんなことを書いていると笑われるのであろうが、私には功利主義についての素朴な疑問をもっている。
それは、功利主義が主張する、「幸福」「反苦痛」「快楽」は、そう言ってしまうと「抽象的」なだけでなく、
- それらが「何か」を実現するための機能
として、そもそも人間にビルトインされてきたはずなのに、なぜそっちを、そっちのけで「幸福」「反苦痛」「快楽」の方ばかりにこだわるのか、といった疑いをもたざるをえない。
例えば、無痛病の人は、腕を骨折しても気付かないで、そのまま生活してしまう、という。このことは、腕が骨折しそうな瞬間に
- 回避行動
をとれないことを意味している。つまり、危険回避の能力が下がるわけである。
このことは、私たちが「苦しい」と感じることは、自らに「アラート」を送る機能を果たしていることを意味しているわけで、むしろこれが
- 機能している
ことは「幸せ」なんじゃないのか? 私がシンガーの「殺してもいい人間がいる」という主張に反対なのも、ここにある。人間を苦しまないようにすることは、それ
- 自体
が目的なのではなく、それが機能することによって、体を健康に保てて生きながらえるからではないのか? つまり、「感情」や「自己意識」がどうであれ、その「目的」を考えるなら、「殺していい人間がいる」というのを、その人間の意識がないから、という理由のもとに行うことは、その「目的」に対する
- 本末転倒
なのではないか、と思うわけである...。