DNAと文系エリート主義的「アイデンティティ」

リチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』は、根本的に頭の悪い

  • 文系

の連中を、ナチス優生学にご招待してしまった、という意味では、罪深かった。
ようするに、彼らはドーキンス

  • 文系的な「コンテンツ」

に対して、なんのためらいもなく、この「DNA」という概念を適用してしまった。すると、何が起きたのか? つまり、ドーキンスの「利己的」は、哲学における

と、ほとんど同一の概念として、繋がってしまったのだ!
こういった悲惨な例の一つとして、人間の

がある。自分が自分である、ということを示す何かのことであるが、よく考えてみよう。自分と自分の親、または、自分の子どもの、どちらを考えてみてもいい。この場合、この

は、まだ「意味のある」概念である。それは、いずれにしろ

  • 2分の1

だからだ。この子の、あの性格は、父親に似ている、母親に似ている、なんて会話を、若い夫婦は、あきもせずに毎日やっているのだろう。この

  • 2世代

の関係においては、こういった「楽しい」会話が成り立つ。すると、なんとなく、DNAというのは、私たちを形成している

  • 人格

のようなものとして、

  • 継承

されているような錯覚に陥る。よって、

  • 才能のある人

と言った場合、なにかその「才能」が次々と、後の世代に引き継がれて行って、

と思って、なんとなく「安心感」を持つわけである。
これは、遺産の「相続」を考えてみれば分かりやすい。この財産を、自分の子どもであり、孫たちであり、そのまた...、が引き継いで行ってくれる、といったようなイメージである。
ところが、である。
これが、「全然」違うわけである。

これを理解するには、ミトコンドリアDNAは別として、ゲノムは1人の祖先から受け継いだ切れ目のない配列ではなく、モザイクのようなものだと知る必要がある。ゲノムは23本の染色体からなり、人は両親からそれぞれ1組ずつ受け継いだ2組のゲノムを持つため、全部で46本の染色体を持っている。つまりゲノムは、46枚のタイルでできたモザイクなのだ。
だが染色体自体も、さらに小さなタイルが集まったモザイクだ。(......)卵子ができるときには平均しておよそ45の新しい組み換えが生じ、精子ができるときにはおよそ26の組み換えが生じるので、1世代につき、合わせておよそ71の新しい組み換えが生じる。
(デイヴィッド・ライク『交雑する人類』)
交雑する人類―古代DNAが解き明かす新サピエンス史

1世代さかのぼると、あなたのゲノムに寄与しているDNA鎖の本数は両親から伝わった約118(47プラス71)となる。2世代さかのぼると、先祖由来のDNA鎖の本数は4人の祖父母から伝わった約189(47プラス71プラス71)に増える。さらにさかのぼれば、世代ごとに加わる先祖由来のDNA鎖の本数は、倍々で増えていく先祖の数にたち追い越される。たとえば、10世代さかのぼると、先祖から受け継いだDNA鎖の本数は757前後だが、あなたの先祖は1024人となり、どんな人にも、DNAをまったく受け継いでいない先祖が200 ~ 300人いることになる。20世代さかのぼれば、先祖の人数はその人のゲノムに含まれる先祖のDNA鎖の本数の1000倍近くになる。というわけで、どんな人も、実際の先祖の大多数から一切のDNAを受け継いでいないことは確かだ。
(デイヴィッド・ライク『交雑する人類』)
交雑する人類―古代DNAが解き明かす新サピエンス史

時をさかのぼると、先祖の人数は増え、ゲノムは大勢の先祖のDNAの中にますます分散していく。5万年もさかのぼれば、わたしたちは10万人以上の先祖のDNAの中に散らばることになるが、これは当時のどんな集団の人数よりも多い。ということは、わたしたちは遥かな過去の、子孫を残した祖先集団のほぼ全員から、DNAを受け継いでいることになる。
ただし、ゲノム配列の比較によってもたらされる遠い過去の情報には限界がある。もしわたしたちの系統を十分に過去までたどれば、ゲノムのそれぞれの部位について、誰もが同じ先祖の子孫であるという地点に達する。
(デイヴィッド・ライク『交雑する人類』)
交雑する人類―古代DNAが解き明かす新サピエンス史

文系の人たちの言う「遺伝子」は、

  • 家族

という意味と、

  • イエ制度

という意味が、混乱している印象を受ける。つまり、一方で「家族」という言葉を使いながら、実際には、「イエ制度」について語っている、ということがよく見られる。家族と「イエ制度」は、まったく違うものである。家族はあくまでも、生物学的なものである。つまり、遺伝子であり、DNAのことだ。
ことろが、イエ制度は、「家督を継ぐ」という、単線的な系列のことを意味している。その典型が、天皇制であろう。一見すると、天皇の「遺伝子」といったものがあるような印象を受ける。しかしそれは、「家族」ではなくて、「イエ制度」なのだ。
上記の引用にあるように、自分の子どもには「2分の1」のアイデンティティを感じたとしても、それが、孫、曾孫となっていき、10世代も離れれば、”

  • 25パーセントの割合で、一切関係のない<他人>

となる。
いや、それだけじゃない。
もう、何世代か重ねると、今度は

  • その時代の、すべての人の遺伝子をもっている

という境に到達する。そして、さらにさかのぼると、いずれ

  • すべての地球上の人の、すべての遺伝子部位が、それぞれ、その時代の誰か一人から来ている

という境に到達する。
うーん。
こう考えてみると、DNAに、なにか神秘的な意味を見出そうとする態度には、根本的な勘違いがあるんじゃないのか、という気がしてくる。
極端な、親子愛や、ドーキンスが言うような、遺伝子の「利己性」は、世代が離れた途端に、ほとんど意味のない概念になっていく、ということを考えざるをえない。つまり、そこまで、遺伝子というレベルでの

  • 繋がり(生物学的な親子)

といったものに、極端な「価値」を置こうとする態度は、どこか歪であり、倒錯しているんじゃないのか、と考えさせられるわけである...。