私は実在論がなにか分かっていない:第一章「観念論」

観念論とはなんだろう、と思うかもしれない。しかし、哲学史においては、一般に経験論者の代表とされているヒュームが、ほとんど最初に明確に定義しているわけである。

ヒュームにおいては概念的側面は感覚的印象と物体(body)とを直接同一視することで解決されていた。すなわち感覚とは別個に物体が存在することは感覚のみからは判明しないのであり、もし感覚の外側に物体が存在すると考えるとすれば、すでに感覚に基づかない前提を受け入れていることになる。ならばそうした疑わしい外的物体について語るのではなく感覚的印象だけを問題にすることがより良い方法であるとヒュームは考えたのである。そのことによってヒュームは他方で教義的側面において抜き差しならない立場に立たされたといえる。我々の自然についての知識とはすなわち外的世界についての知識である。ヒュームのように、我々の感覚とは独立した外的世界について語ることを放棄したのであれば、そもそもの問題である自然についての知識に正当性を与えるということはなんら顧みられないということになる。
(麻生尚志「科学的反実在論自然主義」)
科学的反実在論と自然主義 : HUSCAP

こうやって眺めてみると、カントの「物自体」が、非常に素直なヒューム主義から導かれる結果であったことが分かるのではないか。
ちなみに、上記の植原先生の本でも、こういったヒュームでありカントと、ほとんど似たような議論がされている。

ところが、古くからの問題として、通常の意味での個体が実在的対象であることは実際にはきわめて難しいことがわかっている。たとえば、五分前に見たコップといま眼前にあるコップは、同じ空間的位置を占めているし、何よりも両者はよく似ている。だが、そのことからこの両者をひとくくりにして同一の個体がそこには持続しているのだ、と判断する根拠は何だろうか。
(植原亮『実在論と知識の自然化』)
実在論と知識の自然化: 自然種の一般理論とその応用

この議論を、人間自身という測定装置に当てはめたのが、超越論的自我の議論であることが分かるだろう。ある時、私は目の前のコップを眺めた。では、その五分後にまたコップを眺めたとして、なぜ

  • その眺めた、五分前と五分後の私という「測定装置」が「同じ」と考えられるのか?

これを「同じ」と語る根拠はなにか?
これに対して、カントはまさに、上記のヒュームの立場から「素直」に導かれる議論を行った。
人間はどうやって、外界を認識しているだろうか? そう考えたとき、人間の生まれたときからの、「外界認識の情報」は、人間の内部に蓄積されて、それらから私たちは、

  • 外界のモデル

を構成して、それと対応させて日々を生きていることが推測される。このことは、観念論が言ってきた、「世界が人間の中にある」という主張に対して

  • 世界=その(人間の頭の中にできた)外界のモデル

というふうに同値と解釈することによって、完全に正しくなる。
さて。これらについて、では、上記の植原先生の本がなんと言っているのか、正確に確認しておきたい。

なるほどこのような道筋が、科学的思考の洗練・純化のたどりうるひとつであることはまちがいない。しかしこれは、かえって謎を深めるだけのように思われる。世界についてわれわれが現にもっている認識のあり方が、かりに認識そのもののなせるわざであるとしても、ではなぜ認識はそのようなわざをなるというのだろうか。何よりもこの点が、説明されぬ謎といてそのまま残されてしまう。むろん、単純性や整合性や一般性などを認識の評価規準として持ち出すことで、この点の説明を試みることはできるだろう。そうした規準をなるべく満たそうとすれば、世界についての認識がまさに現にあるような仕方で成立することになる、というわけである。だがたとえこの方向で議論を進めることができたとしても、ただちに、どうしてそのような規準で認識が評価されるべきなのかという厄介な問いが生じざるをえない。このように、実在としての世界と認識とを切り離して、現れとしての世界を秩序づけてそれに構造を与えるという過大で不自然な役割を認識に負わせてしまうと、認識にまつわる謎を明らかにし、それについての首尾一貫した全体像を描き出すことが、あまりにも険しい道のりになってしまうのである。
どこかの地点に引き返さねばならない。そしてそこから別の哲学的見解を提示して謎を解くべきなのである。われわれの認識が世界の真の姿とは異なっていて、それとか無関係に形成される、とする見解を斥けよう。その代わりに提示すべき見解はこうだ。われわれが世界を一定の秩序において捉えることができるのは、世界そのものがおおむねまさしくそのような構造を有しているからにほかならない。いいかえれば、実在の側のあり方と、それについてわれわれが現にもちうる認識とは、ほとんど合致するのである。
(植原亮『実在論と知識の自然化』)
実在論と知識の自然化: 自然種の一般理論とその応用

上記の議論で、最初にこういった観念論的な発想が一つの

  • 科学的態度

だと言っていることは、興味深い。つまり、この植原先生は必ずしも、こういった観念論的な議論が「間違っている」ということを、この本で証明しているわけではない、と言っているわけである。実際、上記の引用の、それ以降で語られている内容は、ほとんど

  • 宗教的信仰

と変わらない、不思議な態度表明に思えないだろうか。というか、そんなことより、もっと大事なことがここで語られている。つまり、植原先生は先生の言う

  • 実在

の「定義」を行った、ということなのだ。植原先生はこういった観念論的な立場が科学的に「間違っている」ことを証明していない。つまり、こういった主張には一定の正当性があることが分かった上で

  • この本では「あえて」、この定義を「実在」の定義とする

と「決めた」、と言っているに過ぎない。つまりはもっと言えば、こういった「実在」の定義が、果して、一般社会で

  • 有効

とされることになるか、認められることになるか、については、それが「当たり前」だとすら言っていない、ということなのだ。