しかし、である。植原先生がなぜそういった立場を選択するのかについては、まったく、説得的な議論をしていないわけではない。それが、クワインに代表される
と一般に呼ばれている議論を背景としていることは説明されている。
つまり、クワインの「認識論の自然化」の基本的な方向性ということになるわけだが、例えば、ここには、近年の、認知神経科学の発展も関係している。脳そのものの、物質的な分析によって、人間の「思考活動」を行うときに、どういった、
- 脳の状態
に遷移するのかを観察することによって、人間の「思考活動」は
- 物質化
していく、という方向性が見通せるようになった、と考えよう。そうした場合に、そもそもの人間の「感覚」と、さまざまな「思考活動」と、脳の「物質状態」に、それなりの対応が見えてきたとするなら、この人間の「感覚」の
- 物質化
に成功した、と解釈できる、ということになる。つまり、人間の「感覚」は
- 自然科学で「記述できる」
ということになり、つまりは、全てが自然科学の中で「閉じる」ということになる、と。ところで、自然科学は、というか、自然科学者は実在論者の人たち、とされていますから、これって
- 実在論の「勝利」
を意味していますよね、っていうロジックだと考えていいだろう。この荒っぽい議論は、しかし、一片の真実を突いている面があることは分かる。それは、結局のところは
- 神経科学の発展
によって、かなりの人間の「思考活動」の
- 物質的なメカニズム
が分かるんじゃないのか、といった予測なわけであろう。つまり、そうである限り、こういった「方向性」には、中長期的な成功を約束されている、有利な立場である、といったことは言えるわけである。
帰納の基礎に類似性ないし自然種に反応する生得的な機能があるというのが正しいとして、ではそうした機構が、恣意的な仕方ではなく、世界の側とそれなりに適合して働くのはなぜなのだろうか。よく知られているとおり、クワインはここでダーウィンの進化論に訴えている。ある生物種のもつそうした機構が、もし世界の実際にありようとかけ離れたものであるならば、その生物種はいずれ絶滅するであろう。というのも、その生物は、食物や配偶者の探索、あるいは捕食者からの逃亡などに失敗する見込みが大きくなるからである。したがって、現在生き残っているのは、自然選択の結果として、類似性ないし自然種にある程度適切に反応する機構をもつに至った生物種の子孫だということになる。人間は現に生き延びており、したがって人間に備わるそうした機構もまた世界の側とそれなりに適合して働く、というわけだ。
(植原亮『実在論と知識の自然化』)
実在論と知識の自然化: 自然種の一般理論とその応用
もしもここで、カントのように現象と「物自体」を分けたとしよう。しかし、クワインに言わせれば、私たち人間の認識の
- 正確度
は、人間の
- 生存度
で「測って」いいんじゃないのか、という見立てになる。なぜなら、そんなに「間違って」いるのなら、そもそも、今、人間は生きていないんじゃないか、と。だったら、なぜそれを「物自体」に「近づいている」と言ってはいけないのかが分からない。
クワインが言いたいのは、
- 哲学を破棄して、科学だけにしよう
と言っている、と考えると分かりやすいかもしれない。クワインはしつこく、なんでそれじゃダメなのか、と聞いているわけである。
しかし、そういった議論をされると、多少、カントを知っている人は鼻白むかもしれない。というのは、カントは自らの批判哲学(超越論的観念論)は、その内部において、完全に科学を正当化できると考えていたから。つまり、カントの立場からすると、クワインの言っていることは、
- 科学の議論に、なんら新しい知識を付加していない
という意味において、あまり傾聴に値することを議論しているように聞こえないのかもしれない。