私は実在論がなにか分かっていない:第三章「普遍論争」

実は、第二章で私はこの本の結論のようなものを書いてしまった。つまり、上記の植原先生の本は、基本的にクワイン自然主義

  • 延長

にある議論を志向している。ということは何を意味しているかというと、植原先生が言っていることは、完全に

  • 科学の説明

と変わらない、ということなのだ。つまり、科学が「何をやっているか」を一つの角度から説明している、ということになり、どうも話がかみ合わなくなっていく。

実在論実念論)に対置されるべきは「唯名論 nominalism」ではないのか、との疑念がわくかもしれない、しかし性質のような普遍者に関しては実在論的でありながら(つまり唯名論を採ることなく)自然種については規約主義的である、ということは可能であろう(cf. Elder 2007b:265-6)。したがって、自然種の反実在性を主張する立場を指すには、唯名論よりも規約主義の方が妥当だと考えられるのである。しかも個体/種の区別を連続的に捉える本書の主張では、唯名論という立場自体があまり有意味ではなくなる。
(植原亮『実在論と知識の自然化』)
実在論と知識の自然化: 自然種の一般理論とその応用

この注は重要なことを言っていて、この本における植原先生の主張は、古典的な普遍論争からは

の側に整理されてしまうことを語っている、ということなのだ。
どういうことか?
スコラ哲学における普遍論争において、例えば「人間」という言葉は、

がそう「呼んだ」わけである。神が使った「名前」がもし「実在しない」となったら、神は嘘を言った、ということになるであろう。ということは、人間は

  • 存在しなければならない

わけである。もっと言えば、太古の人類も、今の人間も、

  • 同じ(=普遍)

と言えなければならない、ということになる。これが「実在論派」である。
対する唯名論派は、まったく難しいことを言っていない。

  • 全ての言葉における名詞は、「必ず」いつかの時代の、だれか一人の人間がつけた「名前」である。

ということに尽きる。つまり、それ以上もそれ以下も語ることを潔しとしない、と素朴な立場を表明をした人たち、ということになる。

唯名論の対照概念の一つは本質主義である。本質主義をはじめて明確にしたのはプラトンであった。プラトンが記した対話篇『メノン』は、徳の本性についてのメノンとソクラテスとの議論から始まる。メノンは次のように主張する。徳のある男性の性質は、徳のある女性の性質とは異なるだろう。同じことは自由人と奴隷や、若者と老人とのあいだにもあてはまる。メノンの主張とは要するに、社会における異なった社会的役割は異なった能力の規準に結びつくということである。それは「しっかりした大人」に期待されることと「しっかりした子ども」に期待されることが違うようなものである。それに対してソクラテスは次のように応じる。メノンが列挙したさまざまな行動はみな「徳」という名前を共通してもっている。それゆえに、それらの行動の全てに共通する一つの事物が何かあるはずである。ソクラテスはさらに自分の立場を弁明していう。さまざまに異なった大きさや形をしたハチたちが集まって一つの群れとなるが、しかしそのハチたちはハチとして、ある一つの本性(あるいは本質)を共有している。ソクラテスはこのアナロジーを推し進めて、節制、正義、勇気といったさまざまに異なる徳が列挙されたとしても、それらもみな徳として同じ本性を共有している点で似ている、と述べる。
(ピーター・ザッカー『精神病理の形而上学』)
精神病理の形而上学

岩波文庫に、プラトンの「ソクラテスの弁明」がある。しかし、実はこの文庫には、一緒にプラトンの「クリトン」が収録されている。この二つを読み比べると、おそらく、あまりの

  • 違い

にびっくりされるのではないか。「クリトン」は、ソクラテスが死刑の判決を下された後、実際に死刑になる間に、ソクラテスの旧友のクリトンが、ソクラテスに海外逃亡を進めた話である。なんか、カルロス・ゴーンの今回の件と似ていると思われるかもしれないが、ソクラテスは結果として、海外に逃亡せずに、死刑を選んだ。そうすると、なんだ、カルロス・ゴーンに比べて、ソクラテス

  • 立派

だなあ、とか言い始める連中がいるのかもしれないが、その印象は「クリトン」しか読んでなければ正しいのかもしれないが、「ソクラテスの弁明」を読んでいれば、まったくの間違いだということが分かる。というのは、ソクラテスは自分が「アテネに産まれてアテネで育った」、アテネ人であることを、外国人でないことを、死刑を受け入れる大きな理由の一つとして挙げているからだ(つまり、ソクラテスは明確に、もしも自分が外国人だったら、逃亡をくわだてていたかもしれない、ということを否定していない)。
ところで、この「ソクラテスの弁明」であるが、読むと多くの人が驚かれるんじゃないかと思っている。これは、ソクラテスの裁判の場で話したことですから、同時代の多くの人が聞いていたわけです。そして、プラトンもその場にいました。古代の人たちは、今の人間の記憶力と比べ物にならないくらい、能力が高かったわけです。だから、プラトンは、まず間違いなく、ソクラテスの言った、一言一句、そのままに記したはずです(そうでないと、聞いてた他の人に怒られますからねw)。
対して、「クリトン」はどうでしょう。まったくのデタラメです。これは、完全な創作です。プラトンは自分が「言いたい」ことを、ソクラテスを主人公にすることで、代弁させています。そのことは、 実際に「ソクラテスの弁明」でソクラテス自身が言っていたこと、この「クリトン」の内容が矛盾していることからも分かるはずです。ここでのレトリックは、上記の『メノン』のレトリックと非常に似ています。なぜソクラテスは逃げないのか? ソクラテスは「死刑」を宣告されました。これは、一見すると間違っています。しかし、たとえどんなに間違っていたとしても、ひとたび

として名づけられたのであれば、「それら」にはなにかしらの

  • 悪としての「共通性」(=本質)

をもっているはずだ、と。これは、完全に『メノン』における、本質主義と同じです。プラトンは、そもそもアテネの民主主義に否定的でした。スパルタの反自由主義こそ、彼の考える理想の

  • 国家

でした。そして、プラトンはなんとかして、それを「証明」しなければならないと考えました。それが、プラトンの政治的な野心だったわけです。そのために、彼は何冊ものソクラテスを主人公とした、本を書きました。そのとき、プラトンはまったくソクラテスを知らなかったわけです。彼が知っていたのは

でした。プラトンの書いた本は、基本的にこのピタゴラス学派の思想の延長にあるものです(おそらくそれは、インド経由の、なんらかの思弁的な哲学が関係していたのでしょう)。
そういった中に、上記で検討したような、『メノン』における

もあったわけです。

たとえばヘリウムは、世界のうちの雑多な対象の集合を人間が恣意的にひとくくりにして名前をつけたものではなく、人間の認識や言語に関わる営為とは独立に世界の側で成立している固有の一単位なのだ。いいかえれば、ヘリウムに「ヘリウム」と名づけて他の対象と区別することは、プラトン以来の比喩でいえば、「自然をその接合部分で切る cut the nature at its joint」ことなのである。本書では、世界におけるそうした固有の単位を「実在的対象」と呼ぶことにしたい。世界は実在的対象からなるのである。
(植原亮『実在論と知識の自然化』)
実在論と知識の自然化: 自然種の一般理論とその応用

ここでの引用を読むと、植原先生は一見すると、本質主義を標榜しているように聞こえて、最初に引用した、「普遍論争」と自らの実在論との関係の否定と矛盾しているように思われるかもしれません。例えば、

ただし、節目で切り分けるという特徴は精神医学上の分類には適用しがたい。症状ネットワークの複雑さや個々の事例の独特さのあまり、ある特定の症例について診断のために情報を集めているときに、統合失調症のような抽象的な疾患概念がとても不十分な、漠然としたものに思えるとがある。
(ピーター・ザッカー『精神病理の形而上学』)
精神病理の形而上学

精神医学における「診断」は、そもそも一意に決まりません、多くの

  • チェック項目

のうちの、何割かが該当したら、その症例の可能性がある、といった診断が一般的です。その場合、なんらかの必須項目がない場合でさえ普通なわけです。しかし、これは精神医学だけでしょうか? 上記の植原先生のプラトン流定義の例でヘリウムが挙げられていることは、興味深いです。というのは、こういった原子は

の対象だと考えられるからです。というか、こういったプラトン流の本質主義的な定義が成立するのは、ほとんどこういった「科学的実在論」が問題にしてきた、

  • 人間の裸眼で見えない

対象である、という事実は興味深く思えるわけです。
植原先生の定義する「実在」は、以下の三つによって記述されます。

  • 性質群の恒常性
  • 帰納的一般化の成立
  • カニズム

ただし、植原先生は必ずこの三つが成立しなければならないとは主張しません。もっと言って、未来永劫、この三つがそろわなくても、それを「実在」と呼ぶことを許容する可能性さえ、留保しています。
しかも、この植原先生の「実在」の定義には、プラトンのような「本質主義」を徹底して排除しています。もっと言えば、多くの

  • グレーゾーン

を含むことさえ、許容します。つまり、どういうことでしょう?

したがって、私が「自然種の一般理論」というとき、われわれが自然種についてどのような概念をもっているのか、あるいは「自然種」の語で何を意味しているのか、といったことを明確化しようとしているのではなく、あくまでも世界において成立している自然種という対象を理解するためのリサーチ・プログラムを提唱しているのである。
(植原亮『実在論と知識の自然化』)
実在論と知識の自然化: 自然種の一般理論とその応用

ここでリサーチ・プログラムという言葉が使われているわけであるが、この言葉から、私たちは、進化論における「適応主義」の議論を思い出さずにはいられないであろう。今は、まだ分かっていないかもしれない。しかしそのことが、

  • はるか未来

においてもそうだとは限らない。もっと多くの「サンプル」が集まることによって、分かるかもしれない。そういった意味で、これは

  • メタ科学

なわけである。

たとえばクジラについての認識は、もともと与えられた直観的な判断(魚である)を経験によって修正していくことで手に入れたものだ。
(植原亮『実在論と知識の自然化』)
実在論と知識の自然化: 自然種の一般理論とその応用

いみじくもここで、クジラに言及されているわけだが、上記で列挙した植原先生の「実在」の定義から分かるように、クジラを「魚」に分類することは間違っていない。というか、植原先生はそういった、個々の事例を

  • 気にしない

わけである。よく見てほしい。植原先生の「実在」の定義は、たんに

  • 科学の手法

を列挙したに過ぎない。それを、植原先生はかっこつけて「実在」と呼んでいるだけなのだ。確かに、はるか過去には、クジラが「魚」に分類されていた時代もある。そういう意味では、クジラが「魚」であることは、その時代には

  • 正しかった

わけである。そこで、「リサーチ・プログラム」なのだ。科学は「進歩」する。その「進歩」のおかげで、クジラを今では「魚」に分類しなくなった。それは、科学が「進歩」したことを意味しており、そうやって、科学は「真実゙」に近づいていく。そう考えるなら、そんな、ある時代の、いちいちの一つ一つの合っていたか間違っていたかなんて、気にしなくていいし、考えることさえ無駄だ。
植原先生の仮想敵は「規約主義」である。「リサーチ・プログラム」とは、はるか未来において、「自然種」と「規約主義゙」のどっちが「正しい」かの決着さえつけばいいわけである。というか、それ以外のことは「どうでもいい」と言っているわけである。