ユーフォ3最終回

アニメ「響け!ユーフォニアム3」最終回を見て、の感想だけれど。
まず、一つだけはっきりと言えることは、ちゃんと、全国大会での演奏に、たっぷりと時間を使って描写したことだよね。当然、麗奈と真由のソリ演奏もたっぷりと描かれた。描かれたけど、ほとんど真由に焦点をあてた描写はなくて、徹底して、麗奈の表情と公美子が手元にユーフォをもっていだけのその手元をずっと描いていた。
結局、私はこの最終回でなんらかの、原作とは違った、

  • なぜ真由がソリに選ばれたのか?

の制作サイドからのメタ的な理由が、間接的に説明されるのかな、と思っていたんだけど、そういったものはなかったね。それどころか、真由は完全に、原作準拠のレベルでしか記述されてなくて、徹底して、真由はオミットされていた。つまり、真由の「感想」が彼女の口から語られる場面もない。つまり、

  • 真由問題

はすべて、12話までで解決した、という立場なんだね、制作陣としては。
このユーフォ3だけど、すでにネット上でさまざまなん考察が行われているけれど、正直言って、山田尚子だっけ。彼女が今回はノータッチなんだよね。確かに、彼女は京アニを辞めている。だから、どうしても彼女が関わらなければならない、というわけじゃない。しかし、それによって、なんらかの新たな

  • 想像性

がオミットされている印象がどうしても強い。わざとらしい、ユーフォ1、ユーフォ2の過去の場面の

  • オマージュ=似たカメラわり

が何度も何度も反復されて、なんというかな。むしろ

  • 過去のあの時よりも「きれい」に描ける

っていうのを自慢しようとしているんじゃないかな、ってうがった見方すらしたくなる。
だから、なぜ真由がソリになったかって、

  • 山での公美子と麗奈の「涙」の場面

  • 反復

するためでしょう。一年のときの、麗奈の「再オーディション」を、今度は公美子で「反復」するため。そして、その反復の映像が完全に

  • オマージュ=似たカメラわり

になっていることから分かるように、なんというか過去の、京アニの「芸術」、京アニの「資産」を、改めて

  • 再賛美

しているだけの、なにか「新しい」芸術を生み出してやろうという「アイデア」を感じないわけ。つまりは、山田尚子という「天才」が抜けたスタッフには、彼女を超えるものを作ろうというチャレンジが、そもそも、最初からなかった。そして、山田尚子本人も今回は関わっていないのだから、必然として、ただの「技術者」たちは、

  • 過去の反復

を繰り返すしかなかった。つまり、才能が「枯渇」していた、ということなんじゃないかな。
(こういった、同じ話題を反復することは、お笑いの世界では「天丼」と言ったりするけど、こっちの業界ではなんと言うんだろうね。)
第12話で、言わば原作の根本的なところを改変してきたことで、ネット上では、それに対する京アニの「評価」が議論された。しかし、その主張の大半は

というものだった。だって、見て、こんなに「感動」したんだから。こんなに泣いたんだから。まあ、お前らが泣く前に、公美子と麗奈が山で泣いてるんだが。
つまり、この原作改変には、なんらかの「意味」があるんだと、それを批判する側は見ていた。最終回で、なんらかの「理由」が描かれるのだろう、と。ところが、それはなかった。なにもなかった。最終回は、驚くべきほどに、

  • 原作準拠

だった。これは、どういうことなのだろう?
つまり、制作サイドとしては、そもそも、12話以前から、さまざまな細かな原作改変を行っている。そういった一連の結果として、12話がああなっている

  • というだけ

という主張なのだ。すでに、それまでのさまざまな「フラグ」によって、その「理由」は示している、と。
つまり、どういうことか?
これは、ある種の

  • イフ・ストーリー

として提示された、ということなのだ。この作品は原作がある。そして、基本的にストーリーは原作通りだ。その上で、そもそも原作においてさえ、公美子と真由は「同じ能力」であることが強調されている(それは、あえて奏ちゃんにそう語らせることによって、「メタ」な形で、読者にこの前提を理解させている)。その上で、関西大会のソリが真由だった上で、全国大会は公美子に変えている。だから、アニメ版は

  • だったら、もう一つの「イフ」ということでは、全国大会のソリも真由の場合もありうるのではないか?

と考えた。ここで大事なポイントは、「二人の実力が同じ」という、作品全体に通底する(メタ的な意味での)「前提」にある。
もちろん、原作のままアニメがそうするには、さすがに制作陣も違和感があった。だから、いろいろな個所で、原作改変を行った。しかし、いずれにしろ大事なことは、

  • 原作とアニメ版で「二つ」のストーリーが楽しめる、という「お得感」

を制作側が意図したことは間違いないわけだ。
ここで、大事なポイントだけ、その二つの「意図」の部分で違いが現れた本質を整理してみる:

  1. 公美子が負けることによって、1年のときの山での公美子と麗奈の「涙」の場面の「天丼」がやれる。
  2. 公美子が再オーディションとなったことで、1年のときの麗奈の再オーディションの「天丼」がやれる。
  3. 真由がなぜ公美子にオーディションの辞退を申し込んだのかの理由に、公美子が中学のときに経験していた、「自分がレギュラーとなることで他の人が控えとなる」経験への「うんざり」感と同じ経験が真由にもあった、といったアニオリが「でっちあげ」られる。つまり、そういう意味で、真由は中学の頃の公美子の再現という意味が再解釈された。その上で、だとしても、同じ音楽を志すものとして「音は裏切れない」という、原作にはない、謎の<価値観>がアニオリとして挿入された。だから、真由は本気で、オーディションに挑んで、公美子が望んでいた、真由が本気でオーディションに挑んでくれる、という「目的」をかなえている。
  4. 公美子が負けた理由としては、公美子自身が麗奈との山の場面で、「自分が音大への進学をあきらめたから、音楽へのモチベが下がっていたのかもしれない」みたいなことを言わせるアニオリが使われている。しかし、そもそもその前から、麗奈は公美子たちに、真由とのソリは「吹きやすい」みたいなことを言わせて、「フラグ」にしている。

非常に残念なことだが、上記の3番目の真由の過去は完全な「アニオリ」だ。つまり、もともと原作で意図されたものじゃない。原作で意図された、真由のこれまでの行動の伏線との整合性が怪しい。おそらく、ここが一番賛否が分かれる。アニメ版は、

  • 結局、公美子と真由は「同じ」

にしてしまった。だから、二人は分かりあえる、と。しかし、それは原作が意図したことじゃない。確かに、原作のメタな議論として、原作の作者が、真由を「中学の頃の公美子が再び目の前に現れる」という

  • ラスボス

を意図している、といったようなことを言っているものがあったりするが、原作でのその「解決」とアニメ版での「解決」が違っている。つまり、アニメ版は

  • 二人の本質は同じ(=例えば、ラブライブでは絶対に悪人は、登場しないと同じような意味で、「真由ちゃんは悪人じゃない」「真由ちゃんも本質的には、私たちと<同じ>だから、<安心>して仲間に加えられる」)

ということが強調されているが、原作では、いろいろと部活に加わってくる人が違っていても、かまわない。いろんな個性がありうる。ただし、「同じ方向」を見ている限り。といったように、「多様性」の方こそが重要視されている。だから、あえて最後まで、真由ちゃんを自分たちの「仲間」然となっていることを、ことさら強調する場面もないまま、あっさりと最終回を迎えている。
ここは逆説的に聞こえるかもしれないが、アニメ版は、わざわざ、原作にないアニオリの真由ちゃんの「過去」をでっちあげてまで、「真由が公美子と同じ」ということを言わなければならなかった。そうじゃないと、真由に、全国大会のオーディションに本気で挑ませる理由を与えられなかった。そして、その結果として、その派生物として、公美子が全国大会のソリを逃すという「謎」の結果に、自然と自分たちを追い詰めていった。
しかし、原作ではその必要がないわけである。なぜなら、「公美子の演説」があるから。これが、全国大会のオーディションの前に行われて、そこで、部員全員の説得が成功したということになっているから、「部がバラバラ」の問題を解決しているから、真由にわざわざ、オーディションで手を抜かなければならないという動機がなくなっている。つまり、ここがアニオリでは「オミット」されているんだけど、見ている人にはあまり意識されないように、うまく、ごまかされている。
考えてみてほしい。アニメ版では、公美子の演説は、関西大会の演奏の直前で行われている。もしもここで、

  • 部がバラバラ

な問題が解決されているなら、なぜ真由がその後の、全国大会のオーディションを辞退しなければならないのか? これに、アニメ版は答えていない。おそらく、アニメ版の最大の欠点はここだろう。
しかし、原作者自身がアニメ版で、原作改変の話を聞いて、「アニメと原作は別の作品」という前提のもとで、あまりにもひどいストーリーになっている個所を除いて、基本的にアニメ制作陣の自由を認める立場だということを言っているのだから、この問題を「原作レイプ」のような、近年起きた、原作者の自殺のような事態に至るようなケースと考える必要のないことは分かるだろう。だからといって、一部の京アニ信者のように

  • 原作が「間違って」いるから、京アニが「正しく」してくれた

みたいな意見には、真面目につきあう必要はない。それについては、すでに、ここで私なりに多く分析してきたつもりだ。
私はどっちかというと、京アニの近年の、極端な「映像美」を追及することに執着する作品に違和感を抱いてきた。それは、「聲の形」における、テーマとして「いじめ」を扱っておきながら、それを「映像美」でごまかすような作品作りに違和感があったのと同じだ。そういう意味では、今回もそれが、再現されているように思われて、残念な気持ちがある。特に、

  • 一年のときの麗奈の再オーディションと、三年での公美子の再オーディション
  • 一年のときの麗奈と公美子の山での涙の場面と、三年での公美子と麗奈の山での涙の場面

の「天丼」は、この同じ構図から作られる

  • テンプレ

の美しい場面の「再現」という形で、過去の「人気」のあった場面を

  • より美しい映像で「再現」

をしたことで、過去の信者にもう一度同じ「賛美」を要求しているように思われて、私には「わざとらしい」と思うと同時に、その当り前のように「喜べ」「これが見たかったんだろ?」と強要されているようで不快だった。でも、信者にとっては、むしろそれこそが求めていたことなんだから(それが「美学」?)、私のような一視聴者がどうこう言うことじゃないのだろうが...。

追記∶
今回は京アニ批判的な内容が多くなったが、この作品の3期とそれ以前との間には、例の京アニで起きた、多くの関係者が亡くなった悲しい事件がある。そのうえで、ここまで前向きな作品に、がんばって、最後まで仕上げてくれたことに感謝しなければならない。生きることは、つらいのだ...。

追記∶
アニオリとして、関西大会を突破して、全国大会に決まったら、部の雰囲気が一変して、久美子より真由の方がいいに変わった、という記述がある。つまり、真由ちゃんがソリだったから、全国に行けたんだから、当然全国も真由ちゃんがやるべき、と。もしもこれが事実なら、部がバラバラの問題は、真由をソリにすることで解決した、ということになる。つまり、アニオリは今度は、あえて久美子が辞退したから、真由がソリになって、全国で金が取れた、という話に変わっていることになる。アニオリは、その説得を補強するために、わざわざ、久美子が音大をあきらめるくだりを、全国のオーディションの直前にしている。もしも、全国で金をとるのに、ソリの音大志望が必要なら、真由が音大を目指しているという記述が必要になる。しかし、ここが原作の雰囲気がかけ離れている。そもそも、久美子はかなり早い段階から自分の音大志望はないだろうとにおわせている。それと同じように、真由が音大を目指しているなんて描写は最初からどこにもない。もしもそうなら、3期の最初からの真由の、変わった性格の女の子という描かれ方はあまりにも、つりあっていない...。