『日本の名著・伊藤仁斎』

伊藤仁斎の全貌を知ることは、現状、素人には難しいですね。一応、この本には「論語古義」と、「童子問 上」の現代語訳があり、入門にはいい。全集もないみたいですし、なんとかしてくれないでしょうかね。

程子はいう、「『論語』を読みおわってまったく平然としている者がいる。読みおわって『論語』の中の一、二句を会得して喜ぶ者がいる。読みおわって『論語』がすきになる者がいる。読みおわって『論語』がすきになる者がいる。読みおわるやいなや狂喜して手が舞い足がおどるのも気づかぬほどの者もいる」と。程子はまたいう、「学問する者は『論語』『孟子』を基本としなければならぬ。『論語』『孟子』の勉強ができあがると六経は勉強しないでも自然にわかってしまう。(中略)」と。(伊藤仁斎論語古義 総論」)

忠というのは、己れのすべてをつくすという意味で、その意味は理解しやすい。ただ、恕という字の意味ははっきりしないものだ。字書に、『己れの身になって他人のことを体するのを、恕という』といっている。ここで体という字をつかったのは、たいそううまいいい方である。十分に他人の心を自分の身になって考えれば、自然と人のことを大目に見る気持が生じてきて、残酷で薄情でありすぎるということにはならないものだ。だから、恕という字には、大目に見るという意味もあるのだ。一般に、人と接するときに、よくよく他人を自分の身になって考え、大目に見る気持があるときには、親しいものと縁遠いもの、遠方のものと近所のもの、目上のものと目下のもの、大きなもおのと小さいもの、それぞれにいちばん落ち着いた場所におさまり、仁は行なわれ、義はゆきわたり、道はすべてのもののなかに含まれるようになる。曽子が、忠恕を夫子の道としたのは、このような考えによるものである。すぐれた役人が裁判の判決をするようなもので、その罪は正しく当たっている。しかしよくよく罪人の心を我が身になって考えると、やはり、いくらかは憐れになり大目に見てやれる事情があるものだ。まして他人の過失で、その罪に、たしかに思いやることができる点のある者には、当然大目に見てやるべきだ。だから、昔の人には、三赦と三宥という法があって、それとなく努力して人のことを思いやるという道理に合致していたのである。時には、にくむべきこと、責めるべきことでも、思いやらねばならぬことがある。恕ということに努力しなければならないのは、以上のごとくである。(伊藤仁斎童子問 上」)

日本の名著 (13) 伊藤仁斎 (中公バックス)

日本の名著 (13) 伊藤仁斎 (中公バックス)