内藤湖南「応仁の乱について」

小島毅のいろいろなところで、ふれられていたので、読んでみた。
著者は、応仁の乱以前と以後の日本は、別の国くらいの違いがあるという。それ以前にあった源平以後の守護・地頭の家は、ほとんど潰れ、今、わたしたちが知っている大名・華族の家は、ほとんどこの頃、現れている、という。
ここでは、足軽といっているが、庶民ですね、かれらが、貴族の家を焼き討ちなどして、いろいろ盗んでいくのだが、それをとりしまれない。なんにせよ、そうして、庶民が、歴史書に出てくる。
他方で、暦などの貴族の文化が、庶民に普及したのも、この時期だという。

東洋文化史 (中公クラシックス)

東洋文化史 (中公クラシックス)

新川登亀男『聖徳太子の歴史学』

聖徳太子は、日本書記にある人物だが(正確には、別の名前で登場する)、ある説では、その存在が疑われている。この本では、その聖徳太子を、各時代において、どのように見られてきたのかに、焦点をあてている。
江戸時代においては、日本の仏教受容に関わった部分から、朱子学者から批判される。明治直後は、廃仏毀釈で、寺など、仏教美術が、かなり破壊されるが、やりすぎという見方が広まり、比較的こういった動きは弱まる。逆に、聖徳太子自身も、学校の教科書でとりあげられるようになる。

聖徳太子の歴史学――記憶と創造の一四〇〇年 (講談社選書メチエ)

聖徳太子の歴史学――記憶と創造の一四〇〇年 (講談社選書メチエ)

浅田彰「逃走する文明」

ひさしぶりに、『逃走論』所収の「逃走する文明」を読んでみたが、ここで主に、相手にしているのが、家なんですね。

さて、もっとも基本的なパラノ型の行動といえば、<住む>ってことだろう。一家をかまえ、そこをセンターとしてテリトリーの拡大を図ると同時に、家財をうずたかく蓄積する。妻を性的に独占し、産ませた子どもの尻をたたいて、一家の発展をめざす。このゲームは途中でおりたら負けだ。<やめられない、とまらない>でもって、どうしてもパラノ型になっちゃうワケね。これはビョーキといえばビョーキなんだけど、近代文明というものはまさしくこうしたパラノ・ドライブによってここまで成長してきたのだった。そしてまた、成長が続いている限りは、楽じゃないといってもそれなりに安心していられる、というワケ。ところが、事態が急変したりすると、パラノ型ってのは弱いんだなァ。ヘタをすると、砦にたてこもって奮戦したあげく玉砕、なんてことになりかねない。

こうやって見ると、水戸学派の会沢正志斎「新論」の、天皇制を思い出しますね。アマテラスオオミカミの、後光を、世界のすみずみにまで照らそう、というわけで、最初は、日本国内の、さまざまな部族を滅ぼし、統合していき、次は、アジアに、広げていく(そんなことを続けたあげくが、敗戦、そして、戦後というわけですが)。こうやって、得体のしれない、強迫観念に動かされて、「パラノ」に突き進む姿が、祭政一致の日本の天皇制の歴史にダブるんですけどね。
彼本人は、全然動かないで、安全なところにいるじゃないか、という批判もあるようですが(理論とは、可能性としてあるので、えてして、そんなものですが)、多くの普通の人たちにこそ、影響を与えていたら、ずいぶんと見渡しのいい世の中になっていたかもしれませんね。-

逃走論―スキゾ・キッズの冒険 (ちくま文庫)

逃走論―スキゾ・キッズの冒険 (ちくま文庫)

術田久美「春猫茸」

実家の本棚を見てたら、「プチアップル・パイ」という、マンガが、幾つかあった(巻の番号は以下。1、2、3、4、5、6、9、10、11、12、15、16、17、18)。
昔、アニキが、アニメックとかアニメージュとかを見ていて、そのつながりがあったのかな。今見てみると、最初の方は、書下しは少なく、初出が、昔の雑誌、というのが多いみたいですね。あと、途中から、題名に、「FOR GIRL」の文字がつき、少女マンガにより、近くなっていっているのかな。
術田久美というのは、上記に幾つか、短編があって、変わってるなと、ちょっと思ったんですが(上記は、1。「ばーすでい・ないと」は、3。「時計屋の午後」は、4)。